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【自衛隊】歴史が証明する軍事力による「自国民保護」の危うさ

自衛隊による「邦人救出」に踏み込む安倍首相

『高野孟のTHE JOURNAL』Vol.172より一部抜粋

安倍晋三首相が、自衛隊による武器使用を伴う海外での「邦人救出」を可能にするような自衛隊法の改正に前のめりになっている。

1月25日のNHK の政治討論では、「イスラム国」による日本人人質殺害事件を念頭に「このように邦人が危害に遭った時、自衛隊が持てる能力を活かせない」のは問題だと指摘、法整備の必要を強調した。人質事件への国民感情を逆手にとる形で、今国会後半の安保法制議論に「邦人救出」解禁をも絡ませようとする意図は見え見えで、これに対しては野党のみならず公明党からも、安倍の性急さへの懸念や批判が出ていた。

そのためかどうか、1月29日衆院予算委員会での民主党議員の質問への答弁などでは、「受け入れ国の同意」があり、また自衛隊が銃を向ける相手が「国家または国家に準ずる組織」ではないことが条件となることを付け加えて、ややトーンダウンした。ところが2月3日参院予算委員会では、ド右翼の次世代の党議員が「外国で拉致・拘束された日本人をいかなる場合でも救出できるよう、憲法9条を改正すべきだ」「よく『憲法9条があるから、平和が守られている』という人がいるが、憲法9条があるから国民の命が危ない」と迫ったのに対して、安倍は「わが党(自民党)はすでに憲法9条についての改正案を示している。それは国民の生命と財産を守る責務を果たすためだ」と述べ、「邦人救護」をフルにやろうとすると憲法9条が邪魔になるというド右翼議員の妄言を敢えて否定せず、むしろ同調した。

この問題についての安倍の認識は明らかに混濁していて、この政権に安保法制をいじらせることの危険がますます浮き彫りになった。

まずは問われるべき外務省・在外公館の腐敗

「邦人救出」という問題が安倍政権のテーマとなったのは、03年1月のアルジェリアでの日本人人質殺害事件がきっかけである。当時、本誌は「“邦人保護”で自衛隊法改正?の危うさ」と題して原理的なところから論じているが(No.664)、新しい読者のために、繰り返しを恐れずさらに詳しく述べることにする。

第1に、海外在留日本人150 万人、年間海外渡航者1800万人を保護・救出するのは、第一義的には外交力であって軍事力ではない。外務省設置法の第4条に列記された29の所轄事務の9番目に「海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること」が掲げられているけれども、実際には各国に置かれた大使館はじめ在外公館は、当該国や周辺地域について的確な情報を収集し分析して、邦人が遭遇しかねないリスクを予測して最大限の予防策を講じるといったプロフェッショナルな仕事など、全くと言っていいほどできていない。

1997年7月にカンボジアの首都プノンペンが内乱状態に陥った時には、日本大使館は保護を求めて押しかけた邦人を迎え入れるどころか、現地雇いのガードマンを使って追い払うようなことをして、大いに顰蹙を買った。2001年の9・11後の在ニューヨーク日本領事館でも似たようなことがあった。

私自身、数多くの海外取材を通じて体験しているので、自信を以て断言するけれども、多くの日本の在外公館は、形だけの儀典や日本から来る議員や高官の接待が主任務で、普段は進出企業幹部やマスコミ特派員など内輪の在留日本人を集めてパーティを開くのが副任務。そのために高価なワインを揃えたワインセラーや豪華なカラオケ設備を整えるのが、大使や領事の力の見せ所になるという腐り切った状態にある。

そういう優雅な外交官生活にとって、外務省の警告を無視して危険地帯に入り、人質になったり殺されたりする日本人が出て来るのは、ただの迷惑要因でしかなく、事件が起きてしまってから「うわあ、どうしよう」という対応にならざるを得ない。このような外務省・在外公館の腐敗と無能をどう変革すべきかということが、問われるべき最初の問題である。

今回の事件について言えば、本誌前々号でも書いたが、人質の1人は昨年8月から、もう1人は同11月から「イスラム国」に囚われていることを知りながら外務省は何をしてきたのか、その状況で安倍首相が中東を歴訪してカイロおよびエルサレムであのような発言をして結果的に「イスラム国」を挑発する危険性をどう判断していたのか、さらに、対策本部を「イスラム国」に対する爆撃作戦に従事しているヨルダンに置くというのが正しかったのか等々、ますは外交レベルで徹底的な検証が必要だろう。

「自衛」の名による「邦人救出」の危うさ

第2に、そもそも軍事力による「邦人保護」、一般化して言えば「自国民保護」という観念自体を是認するのかどうかという問題がある。こういう事件があると「国が国民の生命を守れなくていいのか!」という感情論が盛り上がるのは、ある意味で当然だが、しかしそれは必ずしも自明のことではない。例えば、小沢一郎は次のように語っていて、私もそれに賛成である(高野著『沖縄に海兵隊はいらない!』、にんげん出版、12年刊、P.240~245)。

▼私は「極東有事の際に邦人救出」という概念そのものに反対なのだ。邦人であろうと誰であろうと、極東であろうとどこであろうと、救出を求めている人たちがいれば、国連として救出しなければならず、国連がやる以上、それには日本も参加するということでなければならない。

▼米軍と一緒でも、日本単独でも、自衛権の名による邦人救出のための海外軍事行動はありえない。

▼戦前の多くの戦争は“自衛”の名のもとに始められた。自衛権というものは、個別的にせよ集団的にせよ、極めて慎重に扱わなければならない……。

小沢の言うように、戦前の多くの侵略戦争が「自衛」、そしてその国民感情に訴えやすい具体例として「自国民保護」を口実として遂行されたというのは、紛れもない事実である。

日本に関して言えば、例えば、1926~28年の3次にわたる山東出兵は、いずれも在留邦人の保護を名目に軍隊を派遣したのだし、続く1932年の上海事変では、日本人僧侶が殺害される事件をきっかけに、在留邦人の保護を目的として軍隊が派遣された。日本軍の謀略機関にとっては、不良中国人に金を渡して在留邦人を殺させて侵略の口実を作ることなど造作もないことで、つまりは、自衛と侵略の間に境目などないというのが、戦前日本に限らず世界戦争史の真実なのだ。

だからこそ1945年創設の国連は、個別的にせよ集団的にせよ各国による「自衛権」の行使そのものを強く制約し、それに代わるものとして将来の「国連警察軍」のようなものを創建してそこに武力行使の権限を集中させることを理念とした。小沢が「邦人であろうと誰であろうと……国連として救出しなければならず……それには日本も参加する」と言っているのは、この問題をあくまで国連の「集団安全保障」原理に立って考えるべきであるという意味である。

ところが、国連の理想は冷戦の現実によって裏切られ、またもや「自衛」の名による「侵略」が横行することになった。近年の米国で見れば、イランのイスラム原理主義革命後の1980年、テヘランの米大使館に監禁された米国人を奪回するためにカーター政権が試みて失敗した軍事作戦も、グレナダの左翼クーデタを潰すために1983年にレーガン政権が発動した侵攻作戦も、パナマの独裁者ノリエガ将軍の扱いに手を焼いた米ブッシュ父政権が派手に演出した1989年のパナマ侵攻作戦も、すべて「米人保護」のための「自衛」が名目となっていた。

自国民保護のための自衛だと言えば、どんな野蛮な侵略戦争も合理化できるというおぞましい歴史を我々は未だに引き摺っている。そのおぞましさの方に回帰することが「まともな国家」になることだと考えるのか、もうそういうことは止めにしようと体を張って世界にアピールするのが「まともな国家」なのか、ということがこの問題をめぐる最初の原理的な分岐点である。

寺島実郎が8日のTBS 番組で語っていたように、中東地域で仕事に携わる日本人は、いざという時に自衛隊が助けに来てくれるなどということはまったく想定せず、自らの身は自らが守るという一種の覚悟をもってこの地域と関わってきた。あるいは同じ8日付東京新聞で木村太郎が書いているように、40年前に中東某国に駐在していた時に内乱が勃発したが、大使館は在留邦人に対し退避勧告を出さず「日本人は企業ごとに独自に情報を収集し、判断をして1社また1社と引き上げて行った。…真っ先に脱出したのは総合商社だった。商社マンのネットワークが正確な情報をつかんだからだろう」。

自衛隊はおろか大使館さえ当てにせずに、言わば丸腰で危険地帯にいることのリスクは敢えて覚悟して、いざとなったらサッサと逃げるというのは、それはそれで1つの潔い「安全保障観」であって、それを貫いてきたからこそ、戦後長いあいだ日本はアラブ・イスラム世界で「味方」として信頼を得てきたのだと言える。その信頼がイラク・アフガン両戦争への自衛隊の「後方支援」参加で崩れ始め、ついに今回は「敵」と看做されるに至ってしまった。この状況で「邦人救出」のために自衛隊を投入できるように法改正をするなど、それだけで十分に火に油を注ぐ悪いメッセージになるに決まっている。

むずかしい国際法上の位置づけ

第3に、それでも日本が武力による「邦人救出」をやるという場合にそれを国際法的にどう位置づけるかというのはなかなかの難問である。

(1) 相手国の同意

主として1990年代に世界で行われた自国民救出活動の事例を研究した防衛研究所の論文(★)によると、ほとんどの場合に救出活動は相手国の事前同意を得て行われているが、そうでない場合もあり、特に米国、英国、フランス、イスラエルなど「軍事国家」にその例がある。
★橋本靖明・林宏「軍隊による在外自国民保護活動と国際法」(防衛研究所紀要2002年2月号)。

米国は、上述のように、イラン、グレナダ、パナマなどで相手国の同意を得ることなく軍を派遣した。フランスは、同意取得が原則であるとしながらも、1997年のザイール(現コンゴ民主共和国)の場合は、同国政府が崩壊状態で連絡すら取れない状態であったため、同意なしに軍を送った。イスラエルは1976年、同国人が登場する旅客機がハイジャックされてウガンダのエンテベ空港に着陸した際、ウガンダ政府から同意を得ることなく軍特殊部隊を同空港に突入させて犯人グループと交戦、人質を奪回した。ウガンダはこれを主権侵害と非難したが、イスラエルはこの直後に開かれた国連安保理事会で「自国民の生命の危機は国家の危機であり、自衛権をもって対処した」と主張した。日本を含む多くの国はこれを違法としたが、米国だけはイスラエルの立場を強く支持した。

日本は、このような軍事国家の真似をして相手国の同意なしに自衛隊を送って「侵略」呼ばわりされても開き直るという態度をとることは到底できないので、シンガポールやフィリピンなどと同様、相手国の同意を基本的前提としなければならないのは当然である。

(2) 同意の内容

シンガポールの場合は、軍用機派遣、領空通過、空港着陸、携行武器とその使用基準、機体周辺以外の安全確保は相手国の責任、救出に当たり国籍による優先順位は設定しない、などの原則が予め決まっていて、それに基づいて相手国の同意を取り付け、後で問題になりそうな微妙なところは明文化までして、一切の誤解が生じないよう配慮している。相手国の治安が悪化して機体周辺以外でも救出部隊を自ら護衛しなければならないような場合は、それでも救出活動を実施するかどうか改めて判断するとしていて、慎重の上にも慎重である。

フィリピンは、相手国の同意を必須とし、救出部隊は非武装を前提にしている。タイは、普段から大使館が、緊張が高まった場合の注意喚起という「レベル1」から、実際に戦闘が始まって大使館や指定ホテルに全員退避の「レベル4」までの対応が準備されていて、しかも大使館員だけで人手が足りないことを想定して現地在住のタイ民間人に救出活動の役割を分担させる体制をとっていて、そのレベルに応じて相手国の同意を速やかに得ることを原則としている。マレーシアは、相手国の同意を前提とし特に救出部隊の携行武器については相手国の考えを尊重して無用の刺激を与えないよう配慮するとしている。また、救出に当たっては婦女子を優先し、外国人の扱いに差別を設けない。

(3) 自衛権の拡大解釈?

上述のように、米国などは相手国の同意があろうとなかろうと「自衛権」の名において自国民保護の軍事活動を行うが、これについて国際法の世界では賛否両論がある。他方、自国民救出のための部隊派遣と武力行使は、国連憲章が禁じた武力による威嚇または武力の行使(2条4項)に抵触しないので、自衛権の拡張解釈をする必要がないという学説もある。さらに、相手国の同意が得られない場合は、何らかの形で国連による授権が必要だとする意見もあって、要するに国際法上、救助活動をどう理論づけるかについて定説がない。

国連による初歩的なルール決定が先決

日本は従来、「在外自国民の生命・財産に対する侵害・危険はわが国に対する武力攻撃には当たらず、その保護のための武力行使は、国際法上の当否は別として、わが国憲法上は自衛権の行使としては許されないが、避難するわが国国民を輸送するだけの目的で海上自衛隊の船舶を使用することは、平和目的であって憲法上も許される」という公式の見解をとってきた(1973年9月衆院決算委員会での吉國一郎内閣法制局長官の答弁)。もし日本が個別的自衛権の拡張解釈でやろうとするなら、この法制局長官の答弁も変更しなければならない。

自衛権を拡張解釈する場合の難点の1つは、同長官が言うように、在外邦人の危機が自衛権を発動するほど重大な国家的な危機に当たるかどうか極めて疑わしく、自衛権の濫用となる危険があることだろう。特に日本は過去に邦人保護を名目に侵略戦争を行った歴史を持つので、アジア諸国は敏感に反応する。

自衛権で救出活動を正当化しようとする場合のもう1つの難点は、自国の国益、自国民の保護のために出動するのである以上、その地域で危険に晒されている他国民をも救助するには別の理由付けが必要となることである。米国の場合ははっきししていて、救出の優先順位は、米国籍者、グリーンカード所有者、イギリス・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ国籍者(これはどういう分類なのか:アングロサクソンは米国人の次に大事?)、その他の順である。逆に上述のシンガポールやタイのように自国民優先を敢えて謳わない例もある。

こうして、自国民保護・救出に関しては国際的な共通ルールがないばかりか、国際法の専門家の間でさえ意見が割れている。小沢が言うように、本来は国連ベースで何国人であろうと救助すべきだが、国連警察軍ないしその地域版としての例えばアジア警察軍も存在しない現状ではそれも叶わない。1つの案は「国連の授権により単独もしくは数カ国共同で行う」ということにして、国連がその授権の際の初歩的なルールを決めるということだろう。いずれにせよ、日本がおっとり刀で飛び出して行くような格好でこの領域に軽率に踏み込むのは危険極まりない。

 

『高野孟のTHE JOURNAL』Vol.172より一部抜粋

著者/高野孟(ジャーナリスト)
早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。2002年に早稲田大学客員教授に就任。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。
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