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先の皇室典範“改正”は「違憲だ」と国を提訴。漫画家・小林よしのりが「愛子さま排除法」とも呼ぶべき改悪に激怒する理由

先の皇室典範改正をめぐり、皇位継承のあり方や男女平等、血統による差別の問題が改めて問われています。これを違憲だとして国を提訴した漫画家の小林よしのりさんは、自身の発行する『小林よしのりライジング』の中で、日本独自の平等思想の歴史的な源流をたどりながら、今回の皇室典範改正に異議を唱える理由と、国を相手どり提訴に踏み切った思いについて解説しています。

一君万民は憲法第1章と第14条で担保されている

ついに24日、改正皇室典範こと「愛子さま排除法」が施行されてしまった。

これは天皇陛下の実のお子様で「1親等」の愛子さまが「女だから」という理由だけで排除される一方で、40親等離れた「旧宮家」系の男が「男だから」という理由だけで天皇になれるという、男尊女卑の極みとしか言いようのない法律だ。

そして、「旧宮家」の血筋の男を一般国民と差別して「新貴族」とする法律だ。

わしは以前から表明していたとおり、これは違憲だとして国を提訴した。

この違憲訴訟についての記者会見を10月26日、東京地裁2階の司法記者クラブで行ったが、会見自体はわしとしては大成功だったと思う。 あとはあの場にいた記者たちが、これをどう伝えてくれるかにかかっている。

司法記者クラブでの記者会見なんて初めてだったが、あの会見室が満員になることなど、滅多にないらしい。

予定された時間は30分で、幹事社の記者の裁量次第で時間を過ぎたら強制終了ということもあるらしく、しかも当日の幹事社は産経新聞社だったのだが、会場を使えるギリギリの1時間まで、たっぷりやらせてくれた。 わしはあの産経記者には良心を感じた。

その記者会見の冒頭で、わしが強調したのは、日本は「一君万民」の国だということだ。

ひとりの天皇がいて、それ以外はすべての民が平等である、それが日本の国体であるというのが、わしの理解である。

わしは基本的に、人間は「平等」でなければならないと思っている。

ただしそれは「結果平等」ではなく、「機会平等」のことである。

わしは『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』で、次のように描いた。

「ちゃんと機会(チャンス)が平等に与えられていて…

『よーいどん!』で走りだしても、どうしてもビリになる人は出る

運のない人 実力のない人はビリになる

これはしかたのないことです」

「一方 部落の人 朝鮮の人などは

そもそも機会(チャンス)が平等に与えられていない場合があります

スタートラインが始めから後ろにあるようなものです」

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わしは「機会平等」の世界で生きてきた。

漫画界というところは特に「機会平等」の原則が徹底しており、過去に大ヒット作を持つ大家も、デビューしたての新人も、機会平等で勝負する。 いまそこで発表する作品が全てなのだ。

わしは「週刊少年チャンピオン」で手塚治虫と同時に連載をしていたことがあり、人気投票ではわしが勝っていた。 その時に手塚が連載していた作品が『ブラック・ジャック』だったら勝てたかどうかはわからないが、そこまで徹底して「平等」である世界で生き抜いてきたことがわしの誇りであり、手塚治虫が相手でも「平等」に競争のできる環境が用意されていたこと自体が、日本の誇りだとも言える。

ところがこれが、その作品自体の評価以前に、作者の生まれた「家柄」がいいからその作品を優遇するなんてことがあったら、そんな理不尽な話はない。

ましてや、女が描いた作品だったら、男が描いた作品よりもあらかじめ評価を下げるなんてことは、決してありえないと誰もが思うだろう。

ところがそうは考えず、血や性別で優劣が決まると思う異常な人もいるのだ。

竹田恒泰は「作家」を自称している。 だが同じ「作家」だったら、才能も実績もわしの方が遥かに上だ。 同じ国民という身分で、機会平等で勝負をしたらそういうことになる。

ところが竹田はわしに面と向かって、しかもネットTV番組の生放送という公の場において、「小林さんと私は身分は同じだが、血統が違う!」と言い放った。

つまり、自分は血統が違うから「機会平等」の対象外で、最初っからスタートラインが全然別のところにあるので、あんたよりは上だとマウントを取ったわけである。 わしは侮辱されたようにも感じた。

わしはこれまでに何度も書いているが、「血統」や「血」による差別というものには虫酸が走る感覚がする。

血に優劣なんかない。 血にこだわることこそが「差別」そのものなのである。 わしはあくまでも差別に反対し、日本の平等社会を守りたいと思っている。

何の才能もないくせに、自分の「血」だけで他人を見下してくる竹田恒泰など単なる差別主義者でしかない。

実際に竹田は「差別主義者」という批判をされて、それを「名誉毀損」だとして訴訟を起こし、敗訴している。 つまり事実上、裁判所も「竹田恒泰は差別主義者である」と認定しているのだ。

ところが、よりによって国会が、竹田の差別主義は正当なものであると法律まで作ってお墨付きを与えてしまった。 それが今回の改悪皇室典範だ。 「旧宮家」という血筋につながるとされる者だけが、その血だけを根拠に、他の国民とは異なる特別の扱いをするのがこの法律だ。 狂っているとしか言いようのない立法なのだ。

これは、「一君万民」の思想には真っ向から逆らうものなのである。

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繰り返すが「一君万民思想」とは、天皇という唯一の君主のもとでは、すべての人民は本来平等であり、君主と人民の間に世襲的な特権階級が存在すべきではないという政治思想である。

では、この思想はいつどのように日本に形成されてきたのか?

それを詳しく述べていくとかなり長くなってしまうので、ここではごく簡単に解説するにとどめるが、その源流は古代にまで遡る。

古代シナには「王土王民」思想というものがあった。

『詩経』には次の有名な一節がある。

「普天之下、莫非王土。 率土之浜、莫非王臣」

(天の下にある土地はすべて王の土地であり、その土地に住む者はすべて王の臣下である)

ここには、地域ごとの支配者や中間的な権力者を超えて、天下全体を統治する唯一の君主が存在するという考え方がある。 つまり「一君」である。

ただし、これはあくまでも「王を頂点とする支配秩序の正統性」だけを示すものであって、その下にいる民の平等までは言っていない。

ところがこれが日本に入ってきて、時代を経ると「すべての人民は天皇のもとに等しくある」という政治観へと変化していく。

そこから民が天皇の「おおみこころ」を仰ぎ、天皇が民を「おおみたから」として大事にするという考えが生まれ、大化の改新による「公地公民」の理念も作られていったわけである。

とはいえ実際には、天皇と民の間にはその時その時の「権力」が存在し、それに伴う身分・階級といったものが存在していた。 その権力の最たるものは「幕府」である。 幕府は天皇と民の間に存在し、民を支配するために身分や階級を作っていたのである。

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だが、たとえ天皇は政治に関与せず、民を直接統治していなくても、将軍に官位を与えるなど、権威の源泉として特別な位置を占めていた。

現実に政治を行う将軍や大名の権力と、それを超越する天皇の権威は、はっきり区別されていたのだ。

そして、ここに「一君万民思想」が成立する重要な条件があったのである。

江戸時代には、国学や水戸学によって尊皇思想が唱えられるようになる。

そして幕末には、これが討幕の理念と結びつく。

そこで最も重要な役割を果たしたのが、吉田松陰だ。

吉田松陰は一君万民思想を単なる天皇崇拝ではなく、既存の政治体制を批判する原理へと発展させた。 つまり、天皇と民の間に幕府や藩が存在している体制は一君万民の理念に反するというわけで、これが討幕運動を支える理念となったわけである。

だが、吉田松陰は討幕を見ることなく死んだ。

そして、一君万民思想を受け継いで維新を成し遂げたはずの明治政府も、結局は薩長藩閥が幕府の代わりに天皇と民の間に入り込んだだけで、しかも華族・士族・平民という、新たな身分制度まで作ってしまった。

そこで、これは一君万民に反するということで自由民権運動が勃興するわけだが、これを明治政府はあらゆる手段を使って弾圧していき、自由民権運動も結局は挫折してしまったのである。

そのような自由民権運動の勃興から挫折までの経緯は、『大東亜論』第2部・第3部で描いた。

その作品中では、大久保利通が滅多切りにされて暗殺される場面に「あらゆる手段を講じて政敵を抹殺して権力を私し、日本の針路を決定的に誤らせた男の、見るも無残な最期であった」という辛辣なナレーションをつけている。

歴史的評価の分かれる人物に、これは言い過ぎかと思わないこともなかったが、やっぱりこれでよかったと思う。 大久保利通の玄孫という血筋を誇っているのが麻生太郎だと思うと、なおさらである。

明治維新によっても達成されなかった一君万民だが、これを日本史上初めて法的に担保したのが、実は日本国憲法なのである。

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日本国憲法は第1章、第1条から第8条までが「天皇」である。 これが「一君」の規定だ。

そして第14条第1項には、こうある。

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

すべての国民が差別されない。 平等である。 これが「万民」の規定だ。

日本国憲法の第1章と第14条1項はセットになっていて、これで「一君万民」が担保されている。 おそらく誰も指摘していないと思うが、わしはそう解釈している。

もちろん日本国憲法はGHQが作ったものだとか、第9条には問題があるとかいうことは言うまでもない。 しかしGHQの意図がどうあれ、事実として第1章と第14条がセットで一君万民を担保し、国体を守る構造になっていることは間違いないのである。

本当なら、GHQが作った憲法によって日本史上初めて日本の国体が法的に保障されたなんてことは、全く誇らしくない。

だが、そうやって保障された国体を日本人が自ら破壊して、天皇と民の間に新たな貴族階級を作ってしまったのが今回の改正皇室典範なのだ。 これはGHQに憲法を作られたということよりも遥かにひどい恥辱だ。 日本人の劣化、ここに極まれりである。

再度いうが、わしは基本的に人間は「平等」でなければならないと思っている。

だが「平等」というと、必ず「人権」と結びつけられる。 しかしわしはそれには違和感がある。

たびたび主張していることだが、わしは「人権思想」というものを信じていない。

全ての人間は生まれながらにして「人権」を所有しているなんて言われても、人は誰もが何も持たずに生まれてくるものじゃないかとしか思えない。

だから、全ての人間が「人権」を持っているから「平等」だという説明には、全く納得がいかないのである。

しかもこの人権思想というものは、フランス革命に由来するものだ。 国王をギロチンにかけ、暴徒と化した民衆が、王の持っていた権利を略奪して作ったのが「人権」である。 これを直輸入することは、天皇を戴く日本には合わない。

日本の平等思想は、「一君万民思想」から来るものだと考えるべきなのである。

西洋近代の平等思想は、すべての人間が生まれながらに基本的な権利を持つという、極めて人工的な「自然権思想」だ。

日本の一君万民思想は、西洋の自由・平等思想とは異なる経路から封建的な身分制度を否定し、平等を目指そうとしてきたものであり、その価値にこそ気付き、それを尊重しなければならない。

せっかく日本国憲法によって保障された一君万民思想を、たかが高市早苗が、たかが麻生太郎が、ぶち壊そうとしている。
わしはそんな事態を決して座視することはできない。

今回の違憲訴訟は、「一君万民の国体」を守る闘いなのである。

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image by: Dutchmen Photography / Shutterstock.com

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【著者】 小林よしのり 【月額】 ¥550/月(税込) 【発行周期】 毎月 第1〜4火曜日 発行予定

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