◇以下、中国問題グローバル研究所のホームページでも配信している(※1)陳建甫博士の考察を2回に渡ってお届けする。
※この論考は4月7日の<Engagement Is Not a Trap but a Strategic Arena: Rethinking Taiwan’s Cross-Strait Dilemma Beyond Security Anxiety and Policy Vacuum>(※2)
の翻訳です。
台湾ではここ数週間、国民党(KMT)の鄭麗文主席による中国訪問が大きな物議を醸している。世論は敏感に反応して二極化しており、党派間の対立だけでなく、海峡両岸の交流が意味するところとその帰結に対する不安の高まりを映し出している。その背景には台湾の戦略的議論における根源的な対立軸がある。中国との交流を必要な政策手段と見るべきか、それとも台湾の政治的自律性を損ないうる本質的な脆弱性と見るべきかという点だ。
台湾を独立した政治主体と強く意識する中で、ある見解が浮上し定着しつつある。それは、極度に非対称な力関係の下では、交流は単にリスクを伴うだけでなく、構造からして自滅的だというものだ。この見方によれば、いかなる形の政治交流も中国政府に統一戦線戦略の一環として利用され、対話は影響力行使へ、接触は内部浸透へと変容してしまう。この枠組みでは、交流は政策上の選択肢ではなく、象徴的・制度的な浸透を通じて台湾の主権を徐々に蝕む戦略的な罠と言える。
この懸念は誇張されたものでもイデオロギーに駆られたものでもない。影響工作、ナラティブ形成、エリート層の取り込みなど、中国の政治戦略を長期的に観察してきた経験に基づいている。また、外部から圧力を受けても民主的な制度を守り、政治的自律性を維持しようとする台湾社会に深く根付いた決意を反映している。しかし、この主張に説得力があるからこそ、より綿密な検証が求められる。交流が常に罠であるならば、台湾にはどのような戦略的余地が(もしあるとすれば)残されているだろうか?そしてさらに重要な問題として、政策の選択肢から交流を完全に排除した場合、どのような結果になるだろうか?
安全保障化がもたらす戦略的想像力の低下
国際関係論の視点で見ると、交流を本質的な脅威と捉えることは、安全保障化のプロセスと考えることができる。このプロセスでは、政策手段が存亡に関わる危険として再定義され、戦略的に議論すべき領域から議論の余地がない領域へと移される。安全保障化は、国民の警戒心を煽り政策の対立軸を明確にする上で効果的だが、大きな代償も伴う。政策を構想する余地、つまり政策の想像力を狭めてしまうのだ。
交流が安全保障化されると、戦略的選択肢は二項対立に収束する。交流を拒絶するか、取り込まれるリスクを取るかだ。この種の思考様式は、戦略的分析を構造的決定論に置き換えてしまう。前提にあるのは、非対称な力関係が必然的に支配を生み、交流がもれなく脆弱性につながるという考え方だ。このような前提は直感的には説得力があるが、国際政治の重要な側面、すなわち非対称な力関係にあっても国家が交流のあり方を形成し、調整し、方向転換させる力を持ちうるという点を覆い隠してしまう。
したがって、問題は交流にリスクが伴うかどうかではなく(明らかに伴う)、そのリスクを確定的な結果と見なすか、それとも設計・管理可能な変数と見なすかという点にある。
交流を設計・調整されたプロセスへ
交流は結果そのものではなく政策手段であり、他のあらゆる政策手段と同様、その効果はどのように設計され、制約され、戦略的に展開されるかによって決まる。非対称な力関係では交流が中立であることは稀であり、制度的枠組み、政治的ナラティブ、外部との同盟関係に左右される。
他国の例を見ればよく分かるだろう。ベトナムは歴史的に中国と複雑な関係にあるが、広範な経済関係を維持しつつ、政治的境界と安全保障の自律性を強化している。シンガポールは徹底した制度化と世界経済との融合を通じて、対中関与をより広範な国際的パートナーシップのネットワークに組み込むことで、依存を減らしつつ柔軟性を維持している。
これらの事例は、非対称な力関係の下での交流が必ずしも服従を意味するわけではないことを示している。むしろ、制度設計と戦略的意図で制御・調整されたプロセスとして機能しうる。重要な変数となるのは、リスクにさらされること自体ではなく、交流の条件を定義できるかどうかだ。交流が必然的に譲歩につながるとの前提は、交流が影響力、情報、戦略的地位をも生み出せる可能性があることを見落とすことにつながる。
交流しないことの隠れた代償
台湾を巡る現在の議論で見落とされがちなのは、交流しなければリスクがなくなるわけではない点だ。むしろリスクの配分が変わり、浸透のリスクから誤算のリスクに変質する。
台湾は中国との交流が減り、対立が深まる状況になってきている。公式のコミュニケーションルートは弱体化するか消滅し、制度化された対話はほぼ停止している。それに代わって対中関与は現在、軍事的シグナル、メディアのナラティブ、第三国を舞台とした外交競争など、間接的かつしばしば不安定な形で行われている。
このような状況下では、軍事演習、法執行上の事件、政治的発言といった比較的些細な出来事さえも戦略的意図のシグナルとして解釈されかねない。状況説明や対話ができる制度化された仕組みがなければ、誤解が生じる可能性が著しく高まる。国際政治の歴史は、コミュニケーションを欠いた関係が必ずしも安定しているわけではないことを示している。むしろ、相手の行動を解釈するための信頼できるチャネルがないからこそ、エスカレーションしやすい。
皮肉なことに、交流を恐れて拒絶するほど、その結果を管理する能力は低下する。消えるのはリスクそのものではなく、リスクを解釈し、吸収し、封じ込めるために必要な制度的手段だ。
非対称な力関係の下での戦略的主体性の維持
台湾を巡る戦略的議論によく見られる前提は、力の非対称性が主体的行動力を根本的に制約するというものだ。確かに力の格差は否定できないものの、この結論は分析結果として十分ではない。小国理論によれば、非対称性は主体的行動力を排除するのではなく、その形態を変容させるのだ。
構造的な制約がある状況下では、弱い側はしばしば選択的関与、制度的調整、多国間連携といった間接的な戦略に依存する。これらの戦略によって脆弱性がなくなるわけではないが、分散させて緩和することはできる。構造的な弱点に見えるものも、条件次第では戦略的影響力に転換できる。
重要なのは交流が利用されうるかどうかではなく(いかなる交流もその可能性はある)、台湾が結果を左右できるだけの制度的な能力を有しているかどうかにある。そうした能力が不足しているというのなら、問題は交流そのものではなく、その管理と設計のあり方にある。
「「交流」は罠ではなく戦略の舞台:安全保障の懸念や政策の空白を超えて、両岸問題における台湾のジレンマを再考する(2)【中国問題グローバル研究所】」に続く。
中国国民党党首鄭麗文氏が中国訪問を前に、台北にある国民党本部で演説(写真:AP/アフロ)
(※1)https://grici.or.jp/
(※2)https://grici.or.jp/7280