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真田一族の夢の跡。40枚の写真で綴る隠れた名城・上田城の物語

視聴率も好調なNHK大河ドラマ「真田丸」。3月20日放送回では上田城で大変なことが起きてしまいましたが…。無料メルマガ『写真で見る日本の歴史』では、TEAM ナワバリングの「真田丸『第11話』解説。上田城は御殿ではなく軍事施設だった!?」でも詳しく解説されているその上田城や真田神社などを40枚もの写真とともに紹介しています。

上田城 Ueda-jo Castle

2016年のキーパーソンとなりそうな真田信繁(幸村)ゆかりのお城。そして、徳川の大軍を二度も退けた上田合戦の舞台。現在も残るお城の中でもこれほどの大きな合戦を二度も経験し、なおかつ二度とも籠城側が勝利したというお城はあまりないのではないでしょうか。

この上田合戦の舞台となった上田城は、一見、石垣も少なく土塁中心だし、本丸の形状もほぼ方形でそれほど堅固には見えません。徳川の大軍を破ったとは到底思えないのです。もちろん、守備側の知略等も功奏したのでしょうが、その秘訣は何だったのか。実際には城下町を含めた町全体が巧妙な縄張りだったらしいですし、実際行ってみると土塁の高さはなかなかのものです。

ただ、やはり関ヶ原合戦に遅参した徳川秀忠同様、一見、「天守閣もない小城」とたかをくくってしまいそうな感じがどうしてもしてしまいます。

 

上田城

上田城は天正11年(1583)に真田昌幸が築城しました。二度にわたって徳川の大軍を退けた名城です。関ヶ原の合戦直後に一旦破却されましたが、その後に仙石氏が入封して上田城を再建、宝永3年(1626)に松平氏(藤井松平氏)が領主になり明治維新を迎えました。写真は仙石氏時代に造られて西櫓。上田城でもっとも古い櫓の一つです。

 

西櫓

西櫓は上田城の本丸隅櫓のひとつ。現存する3つの櫓のひとつです。昭和34年(1959)に長野県宝に指定されました。壁の下部に下見板張りは施されていて、寒冷地によく見られる仕様です。入母屋造二層二階のシンプルな建物、桁行五間、梁間四間。壁は白漆喰塗籠大壁。

 

南櫓

南櫓は東虎口櫓門、北櫓と棟続きになっていて、平成6年(1994)に復元された城門とともに上田城の顔になっています。

 

流転の浅間大溶岩

案内文によると天明3年(1783)の浅間山大噴火によって、東御市の山腹まで押し出され、そこから水害でさらに東部自動車学校付近まで流されてきた溶岩とあります。平成14年にこの地に据え置かれた巨石です。

 

南櫓下石垣

かつて尼ヶ淵とよばれた千曲川(信濃川)がながれていた付近から南櫓を見上げたアングルです。現在では尼ヶ淵なる川はありません。自然の要害だったことがわかります。この高い絶壁に石垣が築かれたわけですが、あまりの高さに三段に分ける必要があったものと考えられます。

 

南櫓下石垣下段

下段石垣。色がカラフルです。

 

南櫓下石垣中段

中段石垣は長雨によって一部崩落していたことから、近年に修復工事を施しました。石が葺かれていないところがあるのは、もとから崖が張り出していて、石垣がなかった部分で、モルタルで修復されています。

 

南櫓下石垣上段

上段石垣は西櫓の櫓台になっている部分です。

尼ヶ淵跡

現在、上田城跡駐車場と遊歩道になっているかつての尼ヶ淵。当時は、ここに千曲川(信濃川)が流れていました。上田城は南側に千曲川を防御に組み入れた天然の要害だったということです。

 

登城路近道

登城路の近道。尼ヶ淵跡から直接本丸に登っていくことができる道です。おそらく築城当時にはなかった道でしょう。

 

野面積み石垣

この登城路近道には野面積みの石垣が見られます。もともと上田城は土塁中心で石垣が少ないのですが、その中でも他の石垣とも積み方などが明らかに異なります。松平氏や仙石氏以前、すなわち真田氏のころの石垣なのかもしれません。詳しい解説がなかったのでわかりません。

 

土塁上からの堀

本丸から下を見下ろすとこのように見えます。上田城の本丸はよく残っていて、尼ヶ淵のあった南側以外の三方は、このように土塁と水堀に囲まれています。

 

史跡上田城跡本丸跡

上田城の本丸跡を示す碑。現在の本丸跡には、真田神社があります。また、公園として緑豊かな場所となっています。

 

北西隅櫓跡

北西隅櫓も本丸に7棟あった二層の隅櫓のひとつでした。残念ながら明治維新後に民間に払い下げられ、その後解体の憂き目にあっています。平成6年度に発掘調査がされた時にこの本丸北西部の隅櫓は土塁の上に直接建てられていたことがわかりました。また、平成3年度に行われた本丸堀の浚渫工事の際に、堀底から大量の屋根瓦が出土しました。中には豊臣秀吉が好んだ金にちなんだ金箔瓦もあったことから、豊臣秀吉に臣従していた真田昌幸時代のものである可能性もあるそうです。

 

北東隅櫓跡

上田城本丸は他の幾つかのお城同様、鬼門除けのために北東隅に切り欠きを設けていました。これで鬼門である北東角を無くそうといういとがあるのです。そのため、北東隅櫓も2つ存在していました。形式は他の隅櫓や現存する西櫓と同様だったということです。

 

北東隅櫓心柱礎石

北東隅櫓の中心に据えられていた心柱の礎石。明治時代に少し動かされたそうで、実際にあった位置とは少し異なるということです。

真田神社

知略を得意とし、徳川の大軍を二度にわたって撃退した真田幸村は智恵の神様として崇められています。この神社は、天正11年(1583)に上田城の築城をした真田昌幸、信幸信之、信繁幸村を主神として、歴代の上田城主が祀られています。

 

真田神社碑

眞田神社とあります。真田家の家紋「六連銭」が映えます。

 

真田神社拝殿

拝殿に六連銭のほか、五三桐と永楽通宝の紋があります。それぞれ秀吉と信長が使用したことで有名ですが、江戸期に上田城主だった仙石氏が使用していた家紋でもあります。

 

真田神社本殿

拝殿の後ろには小さながら本殿が鎮座してあります。

 

真田井戸

案内板によるとこの井戸からは抜け穴があって、城北の太郎山麓の砦に通じていたということです。現在ではふたがしてあって確かめようもありません。ちなみに、大阪城にも真田の抜け道なる道があったということで、城外の入り口も存在しています。

 

戊辰役上田藩従軍紀念碑

上田藩は当初は旧幕府軍に与する構えを見せていたようですが、その後新政府軍に恭順し、旧幕府軍側として抵抗した越後長岡藩と戦いました。いわゆる「北越戦争」です。激戦となった榎峠での戦いでは長岡藩が新政府軍に占領していた榎峠を奪回するのですが、その時に上田藩は新政府側として戦闘に参加していました。

 

上田城本丸模型

尼ヶ淵から上田城の本丸を見た模型です。ほぼ四角形ですが、北東は鬼門除けの切り欠きが見られます。梯郭式のお城なので、南側の尼ケ淵以外を二の丸が囲んでいますが、さらに東側には三の丸がありました。東西にほぼ同規模の大手門を有していますが、東側の守りを強固にしているのは、徳川軍を意識してのことといわれています。

 

駕籠

真田信之の妻、大蓮院(小松姫、徳川家康の重臣で徳川四天王の一人、本多忠勝の娘)が江戸から草津温泉に湯治に向かう途中で亡くなり、その遺骸を上田まで運んだ際に使用された駕籠といわれています。

真田三代

真田昌幸、信繁(幸村)、大助の三代の人形です。六連銭(六文銭)の幕も目をひきます。

 

真田昌幸

武田二十四将のひとり。父、幸隆のころから武田信玄に仕えており、初陣はあの第四次川中島合戦。徳川家康を敗走させた三方ヶ原の戦いなど多くの戦いに参加して武名を馳せました。武田氏滅亡後は織田信長に仕えましたが、本能寺の変で信長が没したのちは、ふたたび独立し、最後は関ヶ原で西軍についたために改易させられました。嫡子の信之は東軍についたため、真田一族は江戸時代も存続しました。

 

真田信繁(幸村)

真田昌幸の次男。幸村の名で知られます。大坂夏の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めたといわれる名将。

 

真田大助

真田信繁(幸村)の子。幸昌とも。大坂夏の陣で豊臣秀頼の自害を見届け殉死したといわれています。

 

真田石

真田昌幸(信繁(幸村)、信幸(信之)の父)が、上田城築城の際に城の北にある太郎山から掘り出した石で、その時に「真田石」と名付けられました。岩質は緑色凝灰岩。真田信之が松代に移封となった際に持ち出そうとしましたが、全く動かなかったということです。信之も、そんなに動きたくなければ好きにするがよいと、持ち出しを諦めたということです。

 

上田城平和の鐘 鐘楼

上田城の城下町にあったといわれている時を告げる鐘は、昭和9年に上田城内へ移設されました。しかし、昭和18年には供出に出され、長く鐘がない状態でした。

 

上田城平和の鐘

昭和48年(1973)に、上田市自治会連合会らの復元運動により再び鐘楼に鐘が設置されました。「この鐘の鳴り響くかぎり再び悲惨な事の起らないよう十万市民の平和の願いがこの鐘に込められている」と書かれてあります。

東虎口櫓門と南櫓

虎口とは城の通路の出口という意味。南北の櫓とともに平成6年に復元されました。写真は内側から撮影したもの。上田城の顔となっている場所です。

 

東虎口

虎口とは城の通路の出口という意味。現在の上田城の顔になっている建物群です。両端にある二棟の二重櫓(南櫓・北櫓)は、移築復元されていましたが、平成6年(1994)に城門も復元されました。

 

東虎口櫓門

平成6年(1994)2月に復元された櫓門。西側にも同様の櫓門があったようですが、そちらは跡地になっています。ただ、西側は遺構を確認すると内桝形があったように思います。一方、こちら東虎口は桝形はなさそうです。

 

南櫓

東櫓門と棟続きの南櫓。尼ヶ淵から見上げると見えていた櫓です。尼ヶ淵からは断崖の上に建っているように見えます。

 

北櫓

北櫓。二層二階、桁行五間、梁間四間。入母屋造本瓦葺。外観は白漆喰塗込大壁の下見板張り。白漆喰に下見板張りといえば松本城を思い出します。同じ長野県にあるということで共通するものを感じます。西櫓、南櫓と構造は全く同じで、いずれも長野県宝に指定されています。

 

妓楼となった城櫓

城内の展示によると、実は上田城の南櫓と北櫓は、明治維新後の明治11年(1878)に上田市街の上田遊郭に移築され、金秋楼と万豊楼という娼妓屋として使用されていた時期があったとのことです。写真はその当時のもの。

 

二の丸堀跡1

ここは上田城の二の丸の堀跡。現在は遊歩道となっており、「けやき並木遊歩道」と名付けられています。昭和3年(1928)には上田温電北東線が開通し、この場所を電車が通っていました

 

二の丸堀跡2

上には城内に通じる橋があります。ここにかつて電車が通っていた名残を感じることのできる場所のひとつといえそうです。このような遊歩道になったのは昭和47年(1972)に電車が廃止されてからのこと。このように堀跡が道路や鉄道として利用されている例は全国にあります。

 

北東隅の切り欠き

上田城の本丸を特徴付ける北東隅の切り欠き。これは鬼門となる北東に角を設けないための工夫です。風水思想の影響を感じるつくりですが、このような例も全国で見られます。

 

写真で見る日本の歴史
日本史のお勉強を写真を通して行います。全国にちらばる色々な史跡の写真を、詳しい解説といっしょにお届けします。全国にあるお城、教科書に出てくるお寺など、多数紹介。
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