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【映画評】単なるパロディと侮るなかれ。実は深い秀作「縮みゆく女」

アート・ディレクターにして映画ライターの高橋ヨシキさんが知られざるB級映画や音楽について語るメルマガ『高橋ヨシキのクレイジー・カルチャー・ガイド!』。今回は、1981年公開のアメリカ映画「縮みゆく女」について思う存分語っています。この作品について高橋さんは、1950年代のSFコメディ「縮みゆく人間」のパロディ映画であるとしつつも、「実に見事に時代の感覚を反映した」と好評価。上映当時の時代背景も交えた、一味違ったレビューをお届けいたします!

ヘンテコ映画レビュー

【第4回】『縮みゆく女』
(1981年/米/監督:ジョエル・シュマッカー/脚色:ジェーン・ワグナー/出演:リリー・トムリン、ネッド・ビーティほか)

今月、というか6月は「ゲイ・レズビアン・プライド月間」です。そんな最中にオーランドで最悪の事件が起きてしまったわけですが、そのことも踏まえて今回のメルマガはゲイ・レズビアン特集でお送りしております。

巻頭の「クレイジー・カルチャー・ガイド」でも書いたとおり、ジョエル・シュマッカー監督はゲイを公言している映画監督なのですが、彼が初めて手がけた劇場用映画が今回ご紹介する『縮みゆく女』です。

主演はリリー・トムリン。リリー・トムリンは1970年代初頭、NBCのコント番組『ローワン&マーティンズ・ラーフ・イン』でブレイクしたコメディエンヌ/女優で、映画ではロバート・アルトマンの『ナッシュビル』や『ショート・カッツ』、『ザ・プレイヤー』といった作品群、またジェーン・フォンダ主演の大ヒットコメディ『9時から5時まで』などで知られています。彼女の一人コメディ舞台を映画化した『宇宙におけるチ的生命体の痕跡を求めて The Search for Signs of Inteligent Life in the Universe』は大評判となり、トムリンはこの作品でアメリカン・コメディ・アワード最面白女優賞を受賞しています(ここで「知的」でなく「チ的」と訳しているのは、原題の「Intelligent」の綴りがわざと間違えてあってLの字がひとつ足りないからです)。

題名からもわかる通り、『縮みゆく女』はリチャード・マシスンの小説『縮みゆく人間』のパロディです。『縮みゆく人間』は、小説が発表された翌年の1957年に映画化されており(題名も同じ『縮みゆく人間』)、こちらの監督は『大アマゾンの半魚人』や『それは外宇宙からやってきた It Came From Outer Space』、『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』で知られるジャック・アーノルドでした。

じじいの繰り言になってしまいますが、かつて50年代のSF映画やモンスター映画などは、本や雑誌に掲載された写真で見るか、8ミリフィルムなどの予告編集でしかお目にかかれないものでした。ビデオ以前の時代はとにかく観たい映画があっても映画館でやってなければ(そしてテレビで放映されなければ)お手上げですから、当時すでに古かった映画、とくにジャンル映画を観る機会など皆無に等しかったのです。日本未公開の作品に至っては絶望するしかない。というような時代があったので、DVDで500円とか1000円で50年代SF・モンスター映画が買える現在はまるで夢みたいです、ということは強く言っておきたい。もうほんと幸せ。画質悪いのも多いけど、そんなの全然気になりませんですよーだ(嘘です。本当はこういう50年代SF・ホラー映画の類も、洋盤でブルーレイが出ると思わず買ってしまいます)。

『縮みゆく女』のストーリーは以下のように要約できます。

「とある主婦がどんどん縮んでいってしまう」おしまい。というか、もともと『縮みゆく人間』がそういう話なのでパロディ版『縮みゆく女』も基本的には「主人公がどんどん縮んでいってしまう」以上のことはないのですが、たとえば『縮みゆく人間』には話の途中で、ものすごく小さくなった主人公が箱の中に落ちてしまう場面があります。旦那を見つけられなくなった奥さんは彼を死んだものと思ってしまうのですが、これをそっくり模した場面が『縮みゆく女』にもあり、実はしっかりとオリジナルに敬意を表した作品となっています。

『縮みゆく人間』には(自分のサイズからみると)巨大なモンスターと化した猫に対面してガーンという場面もありますが、『縮みゆく女』では危ないのでペットの犬を家族がよそに預けたりもしています。オリジナル版の『縮みゆく人間』は、性的に不能になり、社会の中での役割がどんどん縮小されていってしまう「男」の恐怖をメタファー的に描いた作品だとされています。そういう社会的な、あるいは実存的な恐怖を文字通り、自分が小さくなってしまうことでうまく表現しているわけです。

では『縮みゆく女』はどうでしょうか。これもまた、時代背景と結びついています。
リリー・トムリンが演じる主人公は絵に描いたような単なる主婦で、その名をパット・クレイマーといいます。この「クレイマー」という苗字はもちろん、映画『クレイマー、クレイマー』から来ています。『クレイマー、クレイマー』は、おさんどんと育児だけを押し付けられたクレイマーさんちの奥さんが「自立して仕事をしたい!」と家を飛び出たことから話がスタートするのですが、『縮みゆく女』のパットは旧来の「主婦」というポジションになんの疑問も抱いていないので、当時の女性解放運動の高まりを考えるとある意味「時代遅れ」の女なのです(そんな彼女の苗字が「クレイマー」というのが既にギャグだというわけです)。

旦那さんや二人の子供とパットが暮らすのは、まんま絵に描いたような郊外の住宅です。1950年代、アメリカの白人はどんどんと郊外の住宅地に移動しました。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、50年代に郊外のニュータウンが作られていくさまと、それが完全に定着した80年代を対比させていました。80年代はいろんな意味で50年代のリバイバルだったので、この対比は鮮やかなものでした。

『縮みゆく女』でパットが住む郊外の町並みは、すべてがパステルカラーに彩られた、まるで50年代のカタログのような絵空事の世界です。50年代といえばパステルカラーとネオンと市松模様なわけですが、こういう「パステルカラーの50年代」の「郊外」を同じように戯画化してみせた作品にはティム・バートンの『シザーハンズ』や、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(の中の、オードリーの郊外幻想の場面)などがあります。『縮みゆく女』はそういった郊外の町並みをはじめ、衣装や家具に至るまで、このパステルカラーの色彩設計が徹底されていて素晴らしいのですが、ここに監督ジョエル・シュマッカーのファッション・センスが反映されているのは間違いないところでしょう。

しかし『縮みゆく女』のパステルカラーの郊外が、50年代とはっきり違う点がひとつあります。それが広告です。もちろん50年代も広告の時代ではあるのですが、『縮みゆく女』の世界では、近所の人たちがみなキャッチフレーズを口ずさみながら芝刈りをしたりバーベキューをしたり車を磨いたりしていて(つまり、彼らの行動自体がそれぞれ芝刈り機やバーベキューセットや車用洗剤の宣伝になっている)、さらにテレビからも怒涛の勢いで洗剤やシャンプーやスプレーや糊の宣伝が垂れ流されているのです。これはちょっと悪夢的で面白い演出ですが、のちにわかるように、そうやって宣伝されている化学物質たっぷりのあれこれを併用した結果の副作用として、パットはどんどん縮んでいくことになったのです。これもやはり当時、食品や洗剤に含まれる化学物質が大きな社会問題になっていたことと関係しています。

また『縮みゆく女』は、どんどん小さくなったことでメディアから大注目されるところも50年代とはちょっと違っています。パットの家には取材陣がおしかけ、主だった雑誌の表紙は瞬く間にパットの顔で埋め尽くされます。
さらにパットはテレビの人気トーク番組に招かれ、アメリカじゅうのお茶の間に知られることになるわけですが、このあたりのメディア風刺は『ロッキー・ホラー・ショー』の続編『ショック・トリートメント』に近いものがあります。『ショック・トリートメント』も『縮みゆく女』と同じ1981年の映画で、やはり50年代風の「郊外の生活」と「旧来の価値観」を痛烈に皮肉ったシーンがある上、身の回りの生活用品すべてが広告によってもたらされていると示したシーンもあり興味は尽きないので、この2作の関連性についてはいずれきちんと検証したいと思います。

もうお分かりかと思いますが、『縮みゆく女』がなんで縮んでいってしまうか、というと、それは「主婦」という存在がこの時代に消え始めていたからです。それこそ『クレイマー、クレイマー』ではありませんが、家庭に閉じ込められて、家事全般をやり、ひたすら夫に尽くすという、奴隷とお母さんと料理人と掃除婦を一緒くたにしたような社会的役割としての「主婦」はもうおしまいだと、そんな時代は50年代の価値観とともになくなっていくんだ、ということを『縮みゆく女』は描いていたわけです。

だからこそ、映画のオチで、まあ『縮みゆく女』のDVDは日本で未発売なのでネタバレ承知で書いてしまいますが、要はラストでパットは、限りなく小さくなったとき、またもや化学物質の水たまりに落ちたことがきっかけで、元のサイズに戻るんですね。よかったよかった、と映画は大団円を迎えると思いきや、ふとパットが目を落とすと、自分の足がむくむくと大きくなって靴がビリビリと破け始めているではありませんか。ジ・エンド。

そうです、旧来の「主婦」は小さくなって姿を消してしまい、これからは自分の足で立つ巨大女の時代がやってくる、と予感させて『縮みゆく女』は終わります。80年代の頭、まだ70年代後半を引きずっていたこの時代、「これからは本格的に女性の時代がやってくるのだ」という期待は大きいものでした。しかしそれはレーガン政権と同時に再燃した激しい保守のバックラッシュによって阻まれてしまうのですが(とはいえ、アメリカでは保守バックラッシュに対抗する女性解放運動も強く、決して女の人たちが「泣き寝入りして元の木阿弥」という状況にならなかったのはご存知のとおりです)、『縮みゆく女』が実に見事に時代の感覚を反映したものだったことはお分かりいただけると思います。

あっ、大事なことを忘れていました。『縮みゆく女』は特撮も素晴らしく、特に巨大サイズのセットやプロップを多用した「人間が小さくなっている表現」には目を見張るものがあります。ミニチュアを使って大怪獣や巨大女を描いた映画は楽しいものですが、逆に小さなものを拡大したセットを用いて撮られたこういう作品も観ていて本当にワクワクサせられます。テレビシリーズ『巨人の惑星』をはじめ、映画だと『人形人間の復讐』などが印象深いですが(日本だと『モスラ』の小美人ぐらいですか)、そういう「ミニチュア人間」もので最も初期の例はやはり『フランケンシュタインの花嫁』でプレトリアス博士が作っていたホムンクルスたちでしょうか(女王やバレリーナや人魚がいました)。

ぼくは未見ですが、最近でも1997年に(それほど最近でもなかった)『ボロワーズ/床下の小さな住人たち』という映画がありました。あ、日本だと宮崎アニメ『借りぐらしのアリエッティ』が「ミニチュア人間もの」ですが、うーんできれば実写で観たい、というのは高望みしすぎなのだろうか(大昔『ウルトラマン』のアニメ版『ザ・ウルトラマン』というのがありましたが、ミニチュア大破壊が観たかったぼくはアニメ版におおいにがっかりさせられた記憶があります)。『ミクロキッズ』や『インナースペース』も「ミニチュア人間もの」……いや『インナースペース』は『ミクロの決死圏』的な「体内冒険もの」なのでまたちょっと別ですが、巨人もの、巨大女ものと同じくらい「ミニチュア人間もの」も面白いので、これからも沢山作られることを願ってやみません。

ああっ、もう一つ大事なことを忘れていました。というわけで、『縮みゆく女』は「またまた大変なことが始まってしまいそうだ!」という予感でもって映画が終わるのですが、こういうときには是非「THE END?」あるいは「THE END…?」 というタイトルを入れてもらいたいものです(『縮みゆく女』は普通に『THE END』でした)。ぼくはこの「THE END?」というやつが本当に大好きで、できればどんな映画もそれで終わってもらいたいと思っているぐらいなのですが、話が長くなるのでこれについては別の機会にお話できればと思います。

あああっ、さらにさらに大事なことを忘れていました。最初の方で「ゲイ・レズビアン特集」だと書いたというのに何てことだっ。えーなぜ今回『縮みゆく女』を取り上げたかといいますと、監督のジョエル・シュマッカーがゲイなのは先に書いたとおりですが、主演のリリー・トムリンもゲイ(レズビアン)だからです。リリー・トムリンは本作の脚色を手がけたジェーン・ワグナーと公私共に長年に渡るパートナーで、1971年から2013年まで42年間に渡って「パートナー状態」だったのち、2013年に晴れて結婚したのでした(カリフォルニア州では2013年6月26日から同性婚が正式に受け付けられるようになったため)。よかったですね。

 

 

高橋ヨシキのクレイジー・カルチャー・ガイド!』より一部抜粋
著者/高橋ヨシキ(デザイナー、ライター。チャーチ・オブ・サタン公認サタニスト)
「人生を無駄にしないためにも、もっとくだらない映画を観なさい!」というのはジョン・ウォーターズ監督の名言ですが、このメルマガでは映画をはじめ、音楽や書籍、時事ネタから貧乏白人のあきれた生態まで、ジャンルにこだわることなく硬軟とりまぜてお届けします。
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