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中国の「南シナ海活動は2000年の歴史」という真っ赤なウソを検証

先日下された「中国に南シナ海の領有権なし」という仲裁裁判所の判決に猛烈に反発、ますます態度を硬化させる中国に対し、関係各国からは批判の声が高まっています。解決策はあるのでしょうか。メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』では、問題解決のカギを握るのは「台湾」であり、日米やASEANは軍事的包囲網で中国を押さえつけるのではなく、巧みな知的包囲網を形成し問題の解決を図るべきというこれまでにない見解が示されています。

もうちょっと落ち着いて議論したい「南シナ海」問題

ハーグの常設仲裁裁判所が7月12日、中国の南シナ海に対する領有権主張を全面的に退ける判決を下したことに対し、中国政府が尋常でない反発ぶりを示し、同裁判所を裏で操っているのは米国や日本だとまで言い出しているのは滑稽極まりない。世界で2番目の経済大国に成り上がったというのに、図体が大きいだけの子どもにすぎないことを国際社会に曝け出しているに等しい。

もっと上手にやればいいのに

いま中国にとって一番大事なことは、この問題に限らずあらゆる国際分野で、第2次大戦後に米国が主導権をとって作り上げてきた国際的な秩序を尊重しつつ、その中で米国に次ぐ大国に相応しい責任ある地位を得て信頼を集める努力を重ねた上で、すでに耐用年数が切れつつあるものも少なくない諸秩序を内側から改革していくという、節度ある漸進的な行動に徹することではないか。ところが中国には、米国主導の戦後秩序の下で不当な扱いを受けてきたというコンプレックスというかトラウマがあるので、時と場合によって今回のようにそれが暴発してしまう。

私見では、国際金融秩序に関しては、中国は上手くやってきたように思う。中国主導で今年1月に開業にこぎ着けた「アジアインフラ投資銀行AIIB)」について、米日が主導権を握る国際通貨基金(IMF)、世界銀行(WB)及びアジア開発銀行(ADB)という既存秩序に対抗するつもりか! という敵意にも似た警戒の声が上がったが、そんなことを言っているのは米日の一部の嫌中派だけで、欧州やアジアの主要国は皆、中国がここ数年来、IMFやADBの運営改善に地道な協力を惜しまないでいることを評価していたので、米日の警告など無視して雪崩を打って参加した。いずれ日本も米国も参加せざるを得なくなるので、鳩山由紀夫元首相がAIIBの国際顧問に入るのは的確な判断である。

IMFでは、リーマンショックとそれに続くユーロ危機を受けて、増資を含む改革論議が2010年から始まったが、これに中国は積極参加し、米国が議会の反対で逆に出資比率を減らしたのとは対照的に、ブラジル、ロシア、インドとのBRICS連合の共同歩調を重視しながら出資比率を日本とほぼ同等の第3位=6.39%にまで増やし、途上国の発言力を強めるためにリーダーシップを発揮した。そしてそれを背景に11年には、戦後ずっと米欧日の3人体制でやってきた副専務理事を、中国を含む4人体制に変えることに成功し、朱民=前中国人民銀行副総裁をそのポストに送り込んだ。朱は、米ジョンズ・ホプキンス大学出身の経済学博士で、世界銀行勤務の後、帰国して前職に就いていた一流の国際金融マンである(本誌No.643=12年9月10日号、「中国という『世紀の大矛盾』とどう向き合うか・3」参照)。

ADBでも中国の存在感は増しており、今や米日に次ぐ3番目の出資国であり、5人の副総裁の1人は中国人だし、12人からなる理事会では米日と並んで単独で理事を出す枠を確保している(他の9理事は複数国の輪番制)。また850人ほどの専任職員にも日米に次いでインド、オーストラリアと並ぶ50人ほどの人員を送り込んでいる。その体制の下、中国の大手銀行はこれまでもたくさんの案件でADBと協調融資や共同プロジェクトの経験を積み重ね、またそれらの案件の2割以上を中国企業が受注している(日本は1%以下)。今さらAIIBがADBと対抗するなどはなからあり得ない話なのである。

今回の問題もこの伝で行けばよかったのだ。ところが中国は最初から仲裁裁判そのものを拒絶して堂々と議論に応じることを避け、そうすれば余計に不利な判決が出るのは分かりきっているのに、その自ら招いた結果に大騒ぎしている。下手くそとしか言い様がない

「2,000年以上の活動の歴史」という嘘

7月13日の中国政府の声明は、「南シナ海での中国人の活動にはすでに2,000年以上の歴史がある。中国は南シナ海諸島及び関係海域を最も早く発見、命名、開発、利用し、その諸島・海域に対して最も早くかつ持続的、平和的、有効に主権と管轄を行使し、南シナ海における領土主権及び権益を確立した」と言っているが、これはもちろん嘘である

元BBCのジャーナリストで今は英王立国際問題研究所にいるビル・ヘイトンの力作『南シナ海/アジアの覇権をめぐる闘争史』(河出書房新社、15年12月刊)が詳しく述べているように、2,000年どころか数千年数万年前からこの海域を自由に行き交って漁労や交易や海賊行為で暮らしを立ててきたのは、フィリピン大学の考古学者=ウィルヘルム・ソルハイムが「ヌサンタオ」(南の島の人々)と名付けたオーストロネシア語系のさまざまな民族や部族の海洋民である。彼らの子孫は今日でも、中国南部の蛋民(たんみん)、ベトナムのダン族、フィリピンで「海のジプシー」と呼ばれるバジャオ族、マレーシアのバジャウ族、インドネシアのオラン・ラウトなどとして海上や沿岸部で何千年何万年前と基本的に同じ暮らし方をしている。

1950年代に米人類学者がフィリピンのミンダナオ島で出会った海民サマ族の女性は、生まれてから1度も陸地に上がったことがなく、陸に上がると悪霊に襲われると信じていた。そのように、彼らは陸地とは無縁どころか陸の国家から排除された人々で、「つまり、本当に南シナ海の島々を発見したのは、今日認識されるような民族的なアイデンティティを持たず、国家のようなものには何の愛着も持たなかったであろう人々なのだ。政治的単位が陸上で発展していくかたわらで、ヌサンタオはその手の届かないところで生きようとしただろう」と、ヘイトンは書いている(P.25~27)。

1世紀頃から4世紀まで東南アジアに覇を唱えたのは、メコンデルタを中心に今のカンボジアからベトナム南部を抑えた「扶南(ふなん)」(と7世紀の中国の史書「梁書」で呼ばれている国)で、ヌサンタオが拓いたローマからインド、中国までを結ぶ海上交易路を支配して、中国の絹や東南アジアのスパイスをローマに、アラビアの乳香や没薬(もつやく)やインドのガラス工芸品などを中国に運んで富を蓄えた。4世紀になると、扶南の従属国の1つだった「チャンラ(真臘=しんろう)」が台頭して今のベトナム中部沿岸のその諸港が栄えた。

ダナンの南西にある世界文化遺産の「ミーソン遺跡」はチャンラ王国の聖域で、数世紀後のアンコールワット寺院に通じるヒンドゥー様式の原型を示しており、要するにこの辺りまでは長くインド文化圏だったのである。

扶南も真臘も、東西交易路を独占していたわけではなく、それ以外にもマレー人、ジャワのタルマ国やスマトラのシュリーヴィジャヤ国などが活躍し、それぞれに中国の歴代王朝と朝貢関係を結んでいたが、それは交易の便宜上のことで中国との主従関係はなかった。これらの南シナ海の諸国・首長らが強い政治的・宗教的繋がりを持っていたのはむしろインドで、宗教は最初はヒンドゥー教、後に仏教を導入し、サンスクリット語を公用語として用いた。

唐に至るまでの中国の内陸王朝にとって、海は辺境もしくは脅威の源であり、中国人が自船で外洋に乗り出すことを禁止していた。貿易は専ら受け身で、中国南部の諸港にやってくるヌサンタオやその子孫たちとの国家管理の下でのオフショア取引に限られていた。唐が崩壊して十国時代になり、福州を中心に「ビン(門構えに虫)」が興ると、陸側を閉ざされたこの小国は海側に活路を求め、10世紀を通じて急速に海洋貿易国家になっていく。次の統一王朝の宋はそれをさらに拡大して、積極的に中国商船に許可を与えて交易を促し、銅銭の輸出を解禁し、マレー船を真似た外洋船の建造法も身につけた。11世紀末には、中国船はどこの港からも外国に向けて出航してよいことになり、東南アジアのあちこちの港町に中国人の商人や船員が溢れ、チャイナタウンを作るようになった(ヘイトン、P.30~37)。

つまり、中国船が南シナ海を行き交うようになったのは、せいぜいが1,000年前からにすぎず、それ以前の「数千年数万年」を通じてこの海は誰にも一元的に支配されることのない海の民のネットワーク共同体の自由な海だった。従って中国政府が言う「2,000年前からの歴史的権利」とかいう定義不明の主張には何の根拠もない

「9段線」主張が生まれた歴史的な経緯

今回の審判で、中国が南シナ海への領土主権と海洋権益の主な根拠としてきた「9段線」は、「法的な根拠たりえない」として完膚なきまでに否定された。この問題を考える場合に、まず歴史的経緯として踏まえておきたいのは、次の3点である。

第1に、この海には、上に見たように「数千年数万年」に渡って領土とか主権とか境界とかいう観念そのものが存在していなかった。それを持ち込んできたのは、イギリス、フランス、ドイツ、米国、そして最後にそれらに見習って帝国化した日本などの侵略者たちであった。ヘイトンは書いている。「19世紀の初めには、なにをもって国とするかという点についてヨーロッパ人と東南アジア人とでは考え方が大きく異なっていた。東南アジアでは従来、政治単位はその中心によって、すなわち支配者の個人的な威光によって決まるもので、支配者の権威は王国の中心から遠ざかるにつれて減少していく。これに対してヨーロッパでは、少なくとも[1648年の]ウェストファリア条約以降は、政治単位はその境界によって決まるものになっていた。法も権利も義務も境界内には一様に適用されるが、境界の外には全く及ばないのだ。アジア的な体制では……どの支配者の権威も及ばないすきまさえ存在した。……ヨーロッパ的な体制では、すきまはどこにも残らない」(P.76~77)。

そのため「列強による陣取り合戦が、南シナ海における現在の国境線のもとになっている。列強は国を作り、国と国との国境を作り、それをもとに海上の境界線が引かれた」(P.80)。

「固定的な国境と領土主権という概念は、まるで何千年も前から存在したかのように当然視されている。しかし東南アジアでは、このような考え方はわずか1世紀強の歴史しかないのだ」(同上)。だから、中国が2,000年前にまで遡って「歴史的な権利」を主張すること自体が馬鹿げている。

第2に、その陣取り合戦に遅れて参加したのが帝国日本であり、1879年の琉球王国併合に続いて1895年に台湾を領有し、さらに20世紀に入って、その先、香港の東南のプラタス諸島(東沙島)、海南島の南方のパラセル諸島(西沙諸島)に手を伸ばそうとして、中国(最初は清、15年からは中華民国)及びフランスともめ事が起きた。このため中国はフランスがスプラトリー諸島(南沙諸島)の領有を宣言した1933年頃から地図制作に力を入れ始め、35年には水陸地図審査委員会の会報で「南シナ海にある132の島嶼の名を上げてこれらは正統な中国の領土であるとぶちあげた。その132のうち28がパラセル諸島、96がスプラトリー諸島に属している。しかしこのリストは、昔からあった中国名を集めたものではなく、航海用の海図に記載されている西欧名の音訳または翻訳だった……ばかりでなく、英国の地図を翻訳する場合に、数多くの誤りを引き継ぎ、新たな誤りまで増やしている」(ヘイトン、P.87)。

つまり、この海域のほとんどの島を「発見、命名」したのが中国ではないことに疑いの余地はない。彼らはこの島嶼リストを作る時に中国語の島名を持っていなかったのだ。

それはともかく、この委員会の主張に従って、翌36年に、熱烈な愛国主義者である地理学会の大御所=白眉初が「自国がいかに多くの領土を奪われたか国民を教育しよう」という目的で、自ら編纂した『中国建設地図』に、あの悪名高きU字型のライン、すなわち「9段線」の原型となる「11段線を描き込んだのである。

しかし中国側のこの作業は、1937年に盧溝橋事件を機に日本が大陸に侵略を開始したために、それどころではなくなって中断された。他方、日本は、33年にフランスが南沙諸島を占領し、38年には商船を派遣して人員資材を上陸し施設の建設を始めたので、これを重大視して同年12月に「新南諸島の所属に関する件」を閣議決定し、南沙の主だった13の島に日本語で命名してそれら全体を「新南群島と名付け台湾総督府の管轄下に置くと宣言した。さらに太平洋戦争が始まって「フィリピンの米軍が1942年5月に降伏すると、南シナ海沿岸のほぼ全域、すなわち台湾からシンガポールまで、ぐるりと回ってまた台湾までが、数千年の歴史上初めてただ一国の手に落ちることになった。南シナ海は『日本の湖』となり、この状態は1945年1月まで続く」(ヘイトン、P.89)。

南沙のことは日本とは無関係の遠い話と思っている向きもあるかと思うが、そうではなく、東南アジアの帝国主義間の陣取り合戦には日本にも一端の責任があることなのである。

第3に、この戦前日本の権益を戦後どう処理するかについて、連合国の方針がいい加減だったために、余計に問題をこじらせてしまった。

日本はカイロ宣言・ポツダム宣言を受諾したことで、満州台湾及び澎湖島などを中華民国に返還することと併せて、1914年の第1次世界大戦の開始以後に奪取・占領した太平洋の一切の島嶼を剥奪されることを受け入れ、その旨が1951年のサンフランシスコ講和条約第2条(b)では「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」こと、(f)で「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」こととして明記された。そして翌52年の日華平和条約でも、サ条約第2条のそれらの条項が「承認された」ことが盛り込まれる。

ところがそこに至る過程では、連合国のこの問題の処理方針はフラフラし通しで、「計画されている国際機関」つまりこれから創設される国連の下に置いて国際的な委員会の管理に委ねるとか、中国に帰属させるとか、それでは南沙の領有を主張してきたフランスが納得しないから中仏の2国間協定で決めるとか、いろいろな案が出た挙げ句、結局は、日本さえ排除すれば戦略的にも経済的にもまったく重要性を持たない海域なのだから、日本が放棄した後の帰属先については言及しないでおこうということに落ち着く。

これに先立って、1946年7月に米占領下から独立したフィリピンは、早速、キリノ副大統領がスプラトリー諸島を同国の「国防範囲」に含めると宣言してフランスと紛争になりつつあった。それに対して中華民国政府は1947年5月に、西沙諸島をフランスから奪還する動議を立法院で可決すると共に、12月には日本の呼称である新南群島を南沙諸島と改め、個々の島嶼にもすべて中国語名を付けた「南海諸島位置図」を刊行し、その時に白眉初博士の「11段線」を復活させて描き込んで、細かいことはともかく、その内側にある島嶼すべては民国が領有すると主張した。

しかしその時、蒋介石軍は毛沢東軍との内戦の真っ盛りで、その主張を実現するための周辺外交などやっている暇はなく、やがて49年10月には毛が中華人民共和国の創立を宣言、蒋は重慶を命からがら脱出して12月には台湾に逃げな込まなければならなかった。北京政府は当然にも、民国のこの主張と11段線を継承した。しかし当時、対仏独立戦争を戦っていた同志ベトナムへの配慮から、53年にトンキン湾のハイフォン沿岸と海南島との中間線にプロットされていた2つの点線を消した。それで今日の9段線になったのである。

中国でも諸説紛々の「9段線」の意味

その後、南沙諸島をめぐる周辺各国の確執の複雑な経緯についてはすべて省略する。矢吹晋の新著『南シナ海/領土紛争と日本』(花伝社、16年6月刊)の要約によれば、中国が岩礁の「島作り」に本格的に取り組み始める2014年まで「『新南群島』として日本政府が列挙した13の島嶼のうち、中華民国は最大の太平島を真っ先に実効支配し、残りの12島をフィリピンとベトナムがそれぞれ6島ずつ等しく分け合って」いて「出遅れた中国に残されていたのはではなく岩礁のみ』であった」(同書P.32~34)。

そのため中国は、9段線主張を盾に強引に島作りを進めるのだが、その9段線とは、伝統的な意味での国境」であって、線内の島嶼のみならず周辺海域もすべて中国のものであり、線外が公海もしくは他国の所属であることを意味しているのか、それとも線内の島嶼とその内水のみが中国領であって、それ以外は公海であることを意味しているのか、はたまたその場合に中国は排他的経済水域と大陸棚の権利は主張するのかしないのか──すべては曖昧なままである。

ホーチミン大学のハン・ヴィエト教授の論文「東海[南シナ海のベトナムの呼称]における中国のU字型線要求/その成立史と法的根拠」は「今日に至るまで、中国と台湾の学者によって、U字型線の法的性格についてのいくつかの解説が行われてきたが、その内容は各種各様に異なりしどろもどろだ」と指摘している(矢吹、P.64)。

──出鱈目と言っていいだろう。主権、領有権、周辺水域、近隣水域、領域、海洋領域、排他的経済水域、大陸棚、内海、歴史的水域、中間線、といった言葉が、国際海洋法などとの関連で何を意味するのかの定義も明らかでないまま飛び交っている。

7月13日の中国政府の声明もほぼ同じで、これらの言葉を並べ立てて、そのどれもが国際法に合致していると主張している。

  1. 中国は東沙諸島、西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島を含む南中国海諸島に対して主権を有する
  2. 中国の南中国海諸島は内水、領海、接続水域を有する
  3. 中国の南中国海諸島は排他的経済水域と大陸棚を有する
  4. 中国は南中国海において歴史的権利を有する

主権の内容は何か。内水、領海、接続水域、排他的経済水域、大陸棚はもちろん海洋法に位置づけられている概念だが、具体的にどこの島嶼にどれを適用すると9段線になるのかの説明が行われたことがない。また、歴史的権利というのは海洋法にはない概念である。こうした混乱を整理しないまま、「2012年4月以降に発行された中国のパスポートにはU字型ラインの入った地図が印刷されている。その正確な意味がはっきり述べられることのないままに、多くの中国人は単純に、それが自国の主張する国境だと受け止めているのである。その立場から[指導部が]後退しようものなら、国内から怒りに満ちた批判があがる恐れがある」(ヘイトン、P.336)。それが習近平政権が陥っている自縄自縛である。

その先はなかなか難しいが……

これを解きほぐすにはどうしたらいいのか。「おそらく、そのひとつの答えは台湾にある」とヘイトンは言う。「中国史に関する議論は、本土よりも台湾のほうがずっと自由にできる見込みがある。……それに台湾には、U字型ラインを最初に引いた政府、つまり中華民国の文書が保管されている。問題のラインがどんな偶然の成り行きで描かれるに至ったのか、おおっぴらに、また徹底的に検証すれば、世論形成に影響力のある人々が考えを変えて、絶対的真理と長らく宣伝してきた国粋主義的な神話を、一部なりとも再検討する気になるかもしれない。そして、台湾から始めるべきという最大の理由はこれだ──中国の当局者が恐れているのは、この問題で譲歩すれば台湾から強く批判されるのではないかということなのである。北京大学の査道炯教授が説明しているように、『単純なことです。共産党対国民党なんですよ』。台湾政府が、南シナ海における歴史文献的な衝突を縮小する方向に動けば、中国政府も同じことをずっとやりやすくなる。平和な未来への鍵は、誠実で批判的な過去の検証にあるのかもしれない」(P.356)。これがヘイトンの大著の結びの言葉である。

なかなかいいアイディアだと思う。そこから始めて、次には、2002年に中国とASEANが策定した「南シナ海行動宣言」に立ち戻ってそれを法的拘束力を持つ「南シナ海行動規範に格上げしようという長年の課題にいよいよ決着をつけることだろう。しかしその先、個々の紛争事案についてASEAN全体、あるいはさらに米国や日本も加わっている「ARF=ASEAN地域[安保]フォーラム」など多国間の枠組みで話し合うことが何より建設的ではあるが、中国は、一対多の図式になることを嫌うし、また特にARFでは米国が関与してくることが避けられないので、決して受け入れないだろう

それはそれで一理あることで、田岡俊次が「ダイヤモンド・オンライン」7月14日号で言うとおり「中国が近隣諸国や米国との関係悪化を冒してまで南シナ海の確保をはかる第1の理由は、軍事面から見れば弾道ミサイル原潜の待機水域の確保」だからである。この視点については、私も、本誌No.810=15年11月9日号「『米中が南シナ海で一触即発』というのは本当か?」や共著『習近平体制の真相に迫る』所収の岡田充との対談(16年7月、花伝社刊、P.72~)などで打ち出している。中国が米本土に到達可能な戦略ミサイルを搭載した原潜を数隻程度、南シナ海に配備しようとすること自体は、米国が中国の核保有を容認している以上、「止めろ」と言うことはできない。米中間の相互核軍縮、その入り口としての相互不使用宣言、それが成るまでの間、不測の事態を回避するための海空連絡メカニズムのできるだけ早い確立を期待するしかないだろう。

そういうわけで、この問題の平和的解決のためには、まず、中国と台湾がそれこそ歴史的に共有してきたが故にお互いが引っ込みがつかなくなっている「9段線」の混濁したイデオロギーを克服することである。日米やASEANが巧みな知的包囲網を形成してそういう方向に議論を導くことが肝心で、軍事的包囲網で中国を押さえつけようとするのはかえって危険である。

 

高野孟のTHE JOURNAL』より一部抜粋
著者/高野孟(ジャーナリスト)
早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。メルマガを読めば日本の置かれている立場が一目瞭然、今なすべきことが見えてくる。
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