ジャーナリスト、事業家、社会活動家として国内外の現場を見てきた、記者の引地達也さんが発行するメルマガ 『ジャーナリスティックなやさしい未来』。今回は、引地さんが講演で依頼され、自分自身で何度も熟慮し直したという大きなテーマ「挫折することの大切さ」について。「挫折をしたらもう終わり」と考えがちな現代人に、引地さんが送るメッセージとは一体どんなものなのでしょうか?
挫折は主観である、と考え、悲しみを点から線へ
先日、講演のテーマに「挫折することの大切さ」を求められた。
当初は快諾していたこのテーマだが、内容を考えていけばいくほど、自分史の恥部に触れなければいけなくなるから、難しい。隠しだてはないつもりでも、あえて表に出さない挫折も少なくない。そもそも私が物事を教える、こと自体にもまだ気恥ずかしさもある。それでも日々通所者と向き合う中で、「失敗」「挫折」を極度に恐れ、何も行動できなくなってしまう相談者も少なくない。失敗や挫折が不安定な心の原因になっているケースもある。それら相談者の失敗や挫折経験を整理することは、次へのステップへは必定。未来に向けた失敗や挫折経験の整理は一人ではできないから、それは私の仕事となる。
知らないうちに日々の業務になっていたのだとふと思う。
この挫折や失敗は、悲しみや苦しみを伴う思い出であるが、人間の日々は喜怒哀楽で構成されているので、喜びや楽しみとは表裏だったり、連関していたりするので、その時点でどの感情に焦点をあてるかで、対象となる経験の見方は変わってくる。
私は聞き役として、時にはあいの手をいれつつ、本人の気づきを促すのが基本だが、時には私の失敗談を話すこともある。それは「あいの手」のつもりの気軽なもの。それがいきなり講演のテーマとなるとやはり気恥ずかしさが先立ってしまう。
この「恥ずかしい」感覚があるから、人は挫折や失敗から学ばなくなってしまうのだろう。その経験を終わったことにしたり、なかったことにする感覚である。過去を直視し失敗から学ぶ姿勢は高貴な人間が成す業、であり、凡人にはなかなか難しい。
そこで、学びの姿勢として最初の切り口は「失敗」と「挫折」を分けることが有効である、と考えた。この違いが分かれば、失敗や挫折でくよくよすることは少なくなるはず。言葉の意味を考えると明白で、例えば「私は新規事業で挫折した」も「私は新規事業で失敗した」も一般的には用法として正しい。
しかしながら、「私は新規事業で挫折感を味わう」と言うが、「私は新規事業で失敗感を味わう」とは言わない。簡単に言えば、「挫折感」はあっても、「失敗感」はない。ここから導き出されるのは、挫折は主観であり、失敗は客観であるということ。失敗は、試合に負けたり、試験が不合格だったりという確かな事実であり、それはゲームオーバー状態の「終わったこと」である。
しかし、挫折は違う。
ここからが挫折の凄さである。「失う」「負ける」の失敗に対し「挫ける」「折れる」は心の状態だから、心持ちによってそれが立ち直る出発点となる。失敗が孤独なる「点」ならば、挫折はあすに向かう未来との連帯の「線」で結ばれる。そんな思いで、自分のこれまでの挫折を考えると、すべて今につながってくると思えるから楽しい。
失敗したいろいろなことを挫折に置き換えると、自然とそれは、今、ここにいる自分に結びついてくる。講演の題目も結局、「挫折」の意味を熟慮するための、きっかけだと思うと、テーマを与えてくれた主催者に感謝という気持ちも湧いてくる。
人生は苦しい、という思いと、面白い、という思いが同居している自分を実感すると、生きている実感が楽しげな雰囲気で湧いてくるのである。
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メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』より一部抜粋
著者/引地達也
記者として、事業家として、社会活動家として、国内外の現場を歩いてきた視点で、世の中をやさしい視点で描きます。誰もが気持よくなれるやさしいジャーナリスムを目指して。
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