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【京都】大文字焼きと呼ばないで。「五山の送り火」に伝わる3つの説

京都の魅力をユニークな視点から伝えてくださる無料メルマガ『おもしろい京都案内』の著者・英 学さんが今回取り上げるのは、古都の夏の風物詩・五山の送り火。「京都の大文字」と聞けば誰もが知る伝統行事ですが、意外にもその起源はハッキリしていないのだとか。伝えられている「3つの説」とは? さらに、美しい送り火を最高のシチュエーションで見られるスポットも特別に紹介しています。

五山の送り火

京都では毎年8月16日に「大文字」「左大文字」「妙・法」「舟形」「鳥居形」の5つの山で送り火が焚かれます。京都では「送り火」や「大文字さん」と呼ばれています。間違っても「大文字焼きなどと言ってはいけません。京都人の逆鱗に触れます。「山焼きちゃうで~」と怒られます。五山の送り火はとても厳粛な宗教儀礼です。

送り火の風習は室町時代から江戸時代にかけて、庶民に定着していったといわれています。色々と記録が残っているようですが、送り火は朝廷や幕府が関わる行事ではなく、一般庶民によって始められました。

明治時代までは、「い」「蛇」「長刀」などといった文字も存在したようです。昔は13もの山で送り火が行われていたとも伝えられています。明治時代に明治政府の近代化政策によって祇園祭と送り火の禁止令が出されています。今考えると酷い話ですよね。でもその10年後に祇園祭と送り火は復活されました。しかし、資金難などを理由に第二次世界大戦後は五山だけとなってしまったのです。

京都で行われる行事や祭りなどのほとんどはその起源や歴史がハッキリしているのですが、送り火だけはその起源が分かっていません。今のところ3つの説が伝えられています。

1.平安初期「空海」説

かつて大文字山のふもとにあった浄土時が火事になったときに、本尊の阿弥陀仏が山上に飛来して光明を放ったと伝えられています。この光を弘法大師空海)が大の字型に改めて火を用いる儀式にしたという説。

2.室町中期「足利義政」説

1499年、足利義政が近江の合戦で死亡した息子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めたとの説。

3.江戸初期「能書家・近衛信尹(このえのぶたか)」説

1662年に刊行された書物「案内者」の中に「大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にて」の記述があるのでこれが有力視されています。

これだけ有名な行事なのにハッキリとした起源が残されていないのは不思議ですよね。でも庶民から始まったものだからこそ、公式な文書などの記載もないし、その存在もないということなのでしょう。

さて、送り火は全部で5つあります。どこでどの字を見るのか毎回悩むところです。送り火全部を眺めるか、一つ二つ選んでじっくり眺めるかで、見物場所が違ってきます。

送り火が見られるのは点火からだいたい約1時間です。送り火を全部眺めるのであればやはり高いところからということになるでしょう。

メジャーなのは京都タワー・京都駅ビル空中経路などでしょうか。遠くの方で小さくしか見ることが出来なさそうですが、全て見渡せるようです。市内中心地で良く見渡せる場所は出町三角州・鴨川堤防・高野川堤防・御園橋・船岡山公園・京都御苑などのようです。

大文字を眺めるなら、やはり鴨川堤防がいいです。予約が大変だと思いますが、「床(ゆか)」を予約して食事をしながら眺めるのは風流でしょう。私は賀茂川の河原で大文字が真正面に見える場所で見たことがありましたが、やはり外でまぢかで見るのがいいものです。

もう一つは嵯峨野の曼荼羅山に天下される鳥居型を広沢の池のほとりでみなもに浮かぶ月明かりと一緒に眺める光景も良かったです。

送り火はお盆で帰ってきていた先祖の霊を天国に送る行事です。自らが健康で元気な毎日を送れていることに感謝し、鎮魂の気持ちでお祈りを捧げるものです。観光で鑑賞するもよしですが、点火された時に大声を出したり、騒いだりするようなものではないのであしからず。

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Wikimedia Commons

 

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