かつては、就職して、結婚して、子供が出来て、子育てして、やがて自分は定年…と、ほとんどの人の人生がある程度見通せていたのと同じように、それに伴う「消費」も予見することができていました。しかし、メルマガ『j-fashion journal』の著者でファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんは、昨今の不安定な経済状況の中で人々の消費行動が消極的になり、かつて当たり前にあった「物を買うという楽しみ」が失われつつあると分析しています。
気分と消費の関係
1.消費のレールが消えた
消費にもレールが敷かれていた。
オギャーと生まれたら、周囲からベビー服のセットが届けられた。哺乳瓶や粉ミルク、紙おむつは親が購入する。
七五三になれば、きものや礼服を買って写真館で記念写真を撮る。幼稚園に入る頃は、キャラクター商品が好きになる。おもちゃやゲームを買ってもらう。
小学校に入る時には、祖父母からランドセルや学習机が贈られる。習い事やスポーツを始めると、それに関連した商品を購入する。
人生にレールが敷かれている人は、消費にもレールが敷かれている。
若い時は音楽に夢中になり、異性に興味が出れば、ファッションに興味が出てくる。
就職、結婚、出産、子育て、マイカーにマイホーム。そして、定年を迎える。
各世代の各人が何となく将来が予測できたし、消費についてもこんなものを買っておけば間違いないというセオリーがあった。
しかし、終身雇用や年功序列が揺らぎ、リストラが行われてからは、世の中のフレームが揺るぎ始めた。
非正規雇用の若者は、明るい未来を予測するのが困難だ。就職しても、定年まで勤め続けるか分からない。企業も時代の変化を乗り越えられるかが分からないし、新たな技術が職業や職場を奪うこともあり得る。
定年を迎える歳になっても、十分な退職金が受け取れる保証もないし、退職金をもらったとしても、親の介護にいくら掛かるか分からない。勿論、その先には、自分の老後生活がある。
若い世代から高齢者まで、全ての世代が将来を予測することができなくなり、不安を抱えている。人生のレールが消えたように、消費のレールも消えてしまった。
中元歳暮は本当に必要なのか。冠婚葬祭はどこまで必要なのか。当たり前だと思っていた消費さえも揺らいでいる。
当たり前の消費も全ては見直しの対象となった。プライベートな事業仕分けの気分である。
2.人生とコトとモノ
私も還暦に近づき、親の介護が始まった。
介護をしていると、様々な発見がある。例えば、生と死の境界は曖昧だということ。
若い時は、人間は元気で生きていて、病気や事故で突然死んでしまうというイメージを持っていた。生と死の間には明確な壁のようなものがあると思っていたのだ。
しかし、介護をしていると、人間は脳や身体がすこしずつ確実に衰退していくのだと思うようになった。生と死の境界は曖昧であり、少しずつ死に近づいているのだ。
勿論、自分も着実に死に近づいている。身体能力は落ちていくし、記憶力や判断力も落ちていく。現在は、まだ知識や経験が老いをカバーして余りあるが、そのうちに老いが優勢になっていくに違いない。
こうした変化は消費行動にも変化をもたらす。高齢者人口が増えることは、世間の消費の気分が変わるということである。
「モノを買う」という意味も変わってくる。
生気にあふれた若い頃は、「モノを買う」こと自体が自己表現の一部だった。こんなモノを買っているこんな自分、を認識するのだ。
しかし、歳と共に、モノを介して自己表現することに興味がなくなっている。時計も靴も服も自動車も、自己表現とは関係ない。
私が、モノを買う目的は二つだ。
第一は、モノを使って何かをすること。使うためにモノを買う。当たり前だが、モノは使ってこそ価値が生まれる。
こだわるコトの道具なら、価格より性能や美しさを重視する。こだわらないコトであれば、価格を重視する。
第二は、価値が下がらないモノに投資すること。あるいは、モノを評価するために購入すること。この場合は、使わなくても商品を購入する。
一方で、ラグジュアリーブランドには興味がなくなっている。ラグジュアリーブランドには、社会的な価値がある。ラグジュアリーブランドの商品を持つことは、一定の階層に所属することを意味する。しかし、死に向き合う年齢になれば、社会的なステイタスに興味がなくなる。
最新のファッションにも興味がない。私の場合、職業としてトレンドを観察しているが、自分自身がトレンドを追いかけようとは思わない。むしろ、変わらないものに価値を見出したい。
3.欲しいモノは売ってない
最近、売ってるものを欲しいと思えなくなっている。売れると思って作る商品に魅力を感じないのだ。
欲しいものは、私がオーダーして作ったもの。あるいは、私を想定して作ってくれたもの。信頼できる人が、私のために選んでくれたもの。
大衆に売れると思って作ったものは、欲しいとは思わない。生活を維持するために買うだけだ。
したがって、欲しいものは売っていないし、売っているものは欲しくないということになる。当然、店を見ても面白くない。商品も面白くないし、売らんがなの空間も面白くない。
見たいのは、商品を作っている人であり、工程である。知りたいのは商品に隠された文化であり、歴史である。そして、商品を作る人の想いである。
モノが欲しいわけではない。モノを介した学習、体験をしてみたいのである。
これを体験できるのは店ではない。工場であり、工房である。あるいは、展示会会場かもしれない。生産者と対話できる場所。生産者が出店する市場のような施設に魅力を感じるのである。
百貨店なら、売場はつまらないが、職人が集うような催し物会場は面白い。派遣販売員の接客なんて受けたくもないと感じている。
4.商業施設のリコンセプト
日本中、商業施設があふれている。商業施設は、利益を上げるための施設であり、売る側の論理で貫かれた施設である。
商業施設を訪れる顧客は、商業施設の利益のために行くわけではない。楽しみに行く。感動しに行く。良い気分を味わうため行く。気分をリフレッシュするために行く。情報収集に行く。勉強するために行く。時間潰しに行くこともあるだろう。
楽しむ結果として商品を購入することもある。買い物が楽しかった時代は、商業施設そのものにエンターテインメント性を感じただろう。しかし、現在は商品が並んでいるだけの施設を楽しいとは思わないのではないか。
商品を主役にして楽しくならないのなら、楽しいコトを主役にしなければならない。例えば、会場でライブ演奏をしている。ライブ演奏会場にミュージシャンのグッズがあれば購入するだろう。モノが欲しいのではなく、コトの記憶を残すために購入するのだ。
美術館のミュージアムショップのように、商業施設はコトの付属施設という位置づけで丁度いいのではないか。
商業施設にアミューズメント施設が付属しているのではない。アミューズメント施設に商業施設が付属しているのが正しいと思う。
例えば、病院の一部にショップがあり、健康をテーマにした商品が展開されていれば、購入したくなるだろう。病院ほど自分の健康について考える場はないからだ。
商業施設は解体されるべきである。そして、あらゆる施設に付属する。最早、商品を購入することは楽しくない。それならば、楽しい施設に行くついでにモノを買うという行動が正しいのではないか。
私のように、人が楽しいならば、百(貨)店ではなく百(人)店に行きたい。特定の趣味を持つ人なら、百(列車)店、百(化石)店、百(マンガ)店、百(ハイキング)店、百(写真撮影)店等のコンセプトが良いだろう。
重要なのは、商品MDではなく、コトMD、楽しみMD、幸せMDであることだ。コントロールするのは、商品だけでなく、空間、サービス、コミュニケーション、エディケーション、エンターテインメント等の要素である。
「締めの都々逸」
「売ろうと思えば 顧客は逃げる 追えば追うほど 売れ残る」
昔は、顧客が商品を欲しがっていた。顧客が商品に片思いをしていた。思っても商品は手に入らなかった。
現在は、商品が顧客に片思いをしている時代だ。商品が顧客に愛されようと思っても、顧客は逃げていく。追えば追うほど在庫が残るだけだ。
商品は歳を取ってしまったのかもしれない。肌の艶もなくなり、筋肉も落ちてしまった。商品はシェイプアップしなければならない。食生活を改善し、有酸素運動と筋力トレーニングをしなければならない。スキンケアから見直し、ヘアもメイクも基本からやり直そう。
そして、顧客との出会いを演出し、恋愛のプロセスを一つ一つ辿り、求愛しなければならない。それでも、一度離れてしまった心を取り戻すのは大変である。
そんな時代なんだな、と思う。今までの延長では売れないのだ。
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『j-fashion journal』より一部抜粋
著者/坂口昌章(シナジープランニング代表)
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