MAG2 NEWS MENU

真田丸ロスまであと2話。幸村と共に闘った「五人衆」のその後は?

人気大河ドラマ『真田丸』を語る上で欠かせないのが、大坂の陣で奮闘した「大坂城五人衆」と呼ばれる強者たちです。ドラマでは個性的な顔ぶれの俳優たちが演じている彼らは、どんな歴史的背景をもつ人物たちなのでしょうか。今回の無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』では、川合和史さんが真田信繁以外の4人を取り上げ、豊臣家・徳川家との関係性や、それまでの活躍などを振り返っています。

ざっくり日本の歴史

明石全登(あかし・てるずみ 生没年不詳)

名前もその読みも諸説ありますが、『真田丸』に従って、全登(てるずみ)で。宇喜多家に仕えていて、その縁で豊臣に臣従。関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家の下で西軍に従軍。敗戦で秀家とも散り散りになり、そのまま出奔します。

『真田丸』で描かれているように敬虔なキリシタンで、信仰の自由を求めて、大坂城入りします。まあ元々が豊臣方ですしね。

大坂城五人衆のひとりとして大坂の陣でも活躍しますが、夏の陣の最後、仲間たちが倒れると決死の突破で包囲網をくぐり抜け、そのまま消息不明に。歴史の表舞台から姿を消しました。その結果、日本中に明石全登の子孫を名乗る家があります。真偽は不明です。

後藤又兵衛(ごとう・またべえ 1560年-1615年)

又兵衛は通称で、名は基次(もとつぐ)。大坂城五人衆のひとりです。元々は黒田家の家臣でしたので、『軍師官兵衛』を観られていた方には懐かしくも。

『軍師官兵衛』では黒田長政と兄弟のように育てられていたのに、その長政とそりが合わずに黒田家を離れます。そりが合わず、なんてどころじゃないほど長政には嫌われたようで、長政は「奉公構(ほうこうかまい)」という通達を全国に出して、他家に仕えることを妨害しました。

だから浪人として大坂城に流れてきたんですね。まあ兄弟のように育ったエピソードは脚色で、官兵衛にかわいがられ、息子には疎んじられたというところでしょうか。

『真田丸』では哀川翔さんがまあなんとも粗野な感じで演じられていますが、講談などでは「槍の又兵衛」の異名を取る豪傑として描かれています。

又兵衛の最期は少し悲しいものなので、次回か次々回どのように描かれるのか楽しみです。なお、幸村もそうなんですが又兵衛も生存説があり、あちこちに落ち延びた先とされる場所が残っていたりします。また家康を討ち取ったとの説も講談などで語られていて、堺の南宗寺には家康の墓まであります。

毛利勝永(もうり・かつなが 1578年-1615年)

「幸村」と同じく、「勝永」という名前は当時の資料にないそうで、資料では毛利吉政という名前が残されています。また元は森という名字で、秀吉の指示で毛利になったと言われています。『真田丸』を観ていると、大坂の陣で急に出てきた感じがありますが、割と古くから秀吉に仕えています

関ヶ原では西軍に付き、勝永は前哨戦などで活躍したのですが、実家の豊前も小倉城を官兵衛(黒田如水)に落とされるなどし、お家は改易。加藤清正や、山内一豊の元を転々としながら保護を受けていましたが、大坂の陣を迎えるにあたって秀頼から請われ徳川の手伝いに行くと嘘をついて出奔します。

大坂城に入ってからは『真田丸』のとおり、又兵衛たちと共に、大坂五人衆として活躍します。岡本健一さん演ずる勝永、かっこいいですよね。ジャニーズで男闘呼組のメンバーとして活躍されていたと聞けば、私たちの世代には納得。息子は同じくジャニーズで、「Hey! Say! JUMP」のメンバーです。

長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか 1575年-1615年)

四国の雄、長宗我部元親の四男です。長兄が豊臣との戦で亡くなった後、父親の後押しもあり、兄弟を押しのけて若くして家督を相続。家督相続後、父親と共に領国経営にあたります。豊臣との関係は微妙なものと言えば微妙なもので、扱いは低かったとも言われていますが、だからこそなのか関ヶ原では西軍に。

で、西軍に付くも、前方に布陣した毛利の陣は東軍に内通しており、どうやら敗色が濃いということもあり、動けないままに終了。親交のあった徳川重臣の井伊直政に勧められて家康に謝罪するも、なんだかんだで結局改易に。

家臣たちとも散り散りになり、京都で蟄居生活を送っていましたが、大坂の陣を迎えるにあたって、これまた徳川に味方したいんだと嘘をついて京都を脱出。大坂城に入り、長宗我部家の再興を期する旧家臣団も盛親の元に集まります。そのため大坂五人衆の中では、最も大きな勢力を従えています

『真田丸』では阿南健治さん演じる盛親の濃い顔がなにより印象深いですが、12月4日の放送でもあったように、お家の再興が悲願です。そのためならなんでもします。最期の最期まで命を繋ごうと敗戦後も自刃しませんでした

井伊直政(いい・なおまさ 1561年-1602年)

最後に、徳川方からひとり。徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に数えられ、「井伊の赤備え」として名高い徳川家臣団最強の精鋭部隊を率いる武将です。没年から分かるように、大坂の陣より前に亡くなっていますし『真田丸』には直接は登場しません。『真田丸』で真田丸が完成し「完封」した回、真田丸を包囲する徳川勢を見て、

高梨内記「あちらにも赤備えがおりますぞ」

真田幸村「あれは井伊直孝(なおたか)の陣。かの井伊直政の次男坊じゃ」

高梨内記「井伊でございますか」

真田幸村「向こうにも、ここにいたるまでの物語があるのだろうな」

高梨内記「一度、聞いてみたいものですなあ」

というやり取りがあったのを、覚えてらっしゃいますでしょうか。井伊家の「ここにいたるまでの物語」が、来年の大河ドラマおんな城主直虎』そのものなんです。あのくだり、実は番宣だったわけですね(笑)。

赤備えは元は武田家が用いていたもので、武田四天王のひとりとして武名高い山県昌景(やまがた・まさかげ)や、その前は飯富虎昌(おぶ・とらまさ)が用いていました。井伊直政が赤備えなのは、武田の旧家臣団を吸収したから。真田の赤備えは、真田家も武田の重臣だった流れからでしょうね。

井伊直政については、来年の大河を観てください(笑)。

次男の井伊直孝は、大坂冬の陣では真田の挑発に乗って真田丸に突っ込み惨敗。夏の陣では活躍して名誉挽回しました。

井伊家は長男の直勝(なおかつ)が継いでいたのですが、出来が今ひとつ悪く、家康は井伊家を二つに分けて、直政の彦根藩は直孝に継がせ直しました。その子孫が桜田門外の変で暗殺された大老、井伊直弼です。

直孝が鷹狩に出た帰り、手招きする猫がいたのでその猫につられて小さな寺に入ると、突然の雷雨。雨宿りしつつ話し込んだことをきっかけに和尚と仲良くなり、その寺は井伊家の菩提寺として立派に改築され、豪徳寺となりました。

猫が招いた縁によるものということで、豪徳寺では招猫堂を立てて猫を祀り、後にその話が、ひこにゃんを誕生させました。ひこねのよいにゃんこ、も。

【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp

合同会社かぷっと代表
https://www.facebook.com/korowan
https://www.facebook.com/caputllc
http://manikabe.net/

image by: cowardlion / Shutterstock.com

 

クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】
デジタルメディアで活躍する現役クリエイターたちのコラムで構成されている本格派。総発行部数約16000! 真のクリエイターを目指している方からデジタルに関わる方まで、すべてに向けて発行中!
<<登録はこちら>>

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け