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99%の失敗が生んだ成功。本田宗一郎「世界のホンダ」半生記

カリスマ社長として今も語り継がれるホンダの創業者・本田宗一郎さんですが、氏には一心同体とも言える盟友がいたことをご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、小さな町工場だった本田技研が「世界のホンダ」となるまでの道程を辿りながら、夢を追い続けた本田宗一郎さんと、副社長として彼を支え続けた藤沢武夫さんの固い絆の物語が紹介されています。

本田宗一郎と藤沢武夫の「夢追い人生」

昭和48(1973)年夏、本田技研工業社長・本田宗一郎が中国出張中に「本田社長藤沢副社長引退」との予期しないニュースが流れた。本田が帰国すると、羽田空港には報道陣が押しかけていた。迎えに出た西田専務は藤沢副社長の辞意を伝えた。

藤沢は創業25年を期に、後進が育ったことを見極め、またカリスマ社長・本田の限界を感じて、西田専務に「おれは今期限りでやめるよ。本田社長にそう伝えてくれ」と言っていたのである。

本田はすぐに藤沢の意図を了解し、「おれは藤沢武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」と西田に言った。羽田での記者会見では笑顔で「前々からやめるつもりで藤沢副社長と相談していた。それがたまたま外遊中にバレてしまっただけだ」と語った。

10月の株主総会で二人は正式に退任した。本田65歳藤沢61歳。世間ではまだまだ現役で通用する年齢だったことに加え、お互いに息子は会社に入れずに、後継者は本田技研が町工場時代に大学卒第一号で入社した生え抜き河島喜好45歳だったこともあって、「さわやかなバトンタッチ」とマスコミは賛辞を送った。

退任が決まった後のある会合で、本田は藤沢に言った。「まあまあだな」「そうまあまあさ」と藤沢。「幸せだったな」「本当に幸せでした。心からお礼を言います」「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」。これで引退の話は終わった。

本田と藤沢の出会い

本田と藤沢が運命の出会いをしたのは昭和24年8月焼け跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋だった。戦争が終わって4年、人々は貧しい中にも、復興の希望に燃えていた。

「浜松の発明狂」だった本田は「東京に出て本格的なオートバイを作りたいが金がない」。福島で製材所を営んでいた藤沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを売りたい」。初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田カネの工面は藤沢」と役割分担を決めた。藤沢はその場で製材所を叩き売って、資金を作ることを決意した。

それからの二人は、未来について夜中の12時頃まで話し込んでは翌朝7時頃から話し始めるという毎日を続ける。毎日毎日会っているのに別れる時が辛かった。こういう状態を2、3年続けたので、二人は一生の分の話をしてしまい、その後は年に数回程度しか会わなくとも、連携してやっていけた。藤沢が「おれは辞める」と言ったとき、本田がすぐにその意図を察する事ができたのも、このためである。

二人の出会いを、藤沢はこう記している。

私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移していくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走って行くだろう、そう思ったのです。

「今にウチは世界一の二輪車メーカーになる」

翌25年3月、藤沢の出資を得て、ホンダは東京に進出、八重洲に粗末な営業所を設けた。26年に大卒で入社した元副社長・川島喜八郎は、ホンダというオートバイを作っている面白そうな会社が営業マンを募集していると聞いて、浜松まで出かけた。作業服を着て、どう見ても町工場の親父さん然として本田が出てきて、いきなり、今にウチは世界一の二輪車メーカーになる、と事もなげに言う。

営業希望なら東京に行って藤沢に会え、と言われて、八重洲の魚屋の隣の粗末な営業所に行った。魚屋からハエが飛んでくるので、ハエ叩きを持ちながら、藤沢は「本田宗一郎は必ず世界一になるような商品を作るだろうそれをいかに売るかが私の仕事なんだ」と言った。二人の人柄に強く惹かれて、川島はその場で入社を決めた。

その頃の本田は新しいエンジンなどのアイデアを思いつくと、工場の床にしゃがみ込んで、チョークでスケッチを描いて社員たちに見せた。既存の製品のコピーなどは絶対に我慢できず、技術者たちの設計には、「どこが新しいんだ?どこがヨソと違うんだ?」と真っ先に聞いた。毎朝の朝礼では、ミカン箱の上に立って世界一になる」。

ドリーム号

それまで本田は旧陸軍の無線機発電用のエンジンを自転車につけて売っていた。戦争直後、交通は混乱し、ガソリンも乏しい時代に、この補助エンジン付き自転車はよく売れた。しかしこれではスピードも遅いし、耐久力もない。どうしても本格的なフレームを持った強い馬力のオートバイを作りたいと本田は思った。

藤沢と出会った昭和24年8月、技術者たち全員の知恵を集めて完成したのがドリーム号だった。その名は、スピードにを託すという意味から本田自身がつけた。平成9年10月までにホンダは1億台のモーターサイクルを生産したが、その第一号がこのドリーム号であった。

ドリーム号は好評で、作るそばからどんどん売れた。自分が工夫したものが人に喜ばれて役に立つことに、本田は無上の喜びを感じた。

「良品に国境なし」

当時の日本製品は国際競争力がなく、産業界は政府に輸出振興と輸入制限を頼み込む状況だった。しかし、これではいずれ世界の自由化の波に飲み込まれるか、あるいは閉鎖市場として世界の進歩から取り残されるしかない。「良品に国境なし」、本田は技術を高め世界一の製品を開発すれば、だれも外国製品を輸入しようとはしないし、黙っていても輸出は増えるはずだと考えた。

世界一の製品を作るには優れた工作機械が必要だ。当時の国産の工作機械では十分な精度が出ない。のどから手が出るほど外国の工作機械を欲しがっている本田の気持ちを察して、藤沢は「社長、欲しい機械はどんどん買ってくれ」と資本金わずか6,000万円の会社で4億5,000万円もの機械を購入させた。しかし、その直後に昭和27、28年の不況が押し寄せ、藤沢は必死の資金繰りで会社を支える。

当時は外貨が貴重だったが、たとえ会社が潰れても機械そのものは残るから、国民の外貨は決してムダにはなるまい、とまで本田は考えたのである。それから7年後、輸出が100万ドルを超し輸入外貨を取り戻した時に、新宿コマ劇場を借り切り、全国から社員を呼び集めて盛大な記念式をあげた。

マン島のレースに挑戦

英国のマン島では毎年世界各国の優秀なオートバイ・メーカーが集まり、技術を競うTT(ツーリスト・トロフィー)レースが開催されていた。昭和29年3月、本田はこのレースに挑戦することを宣言した。

わたしの幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。…

日本の機械工業の真価を問い、此を世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。ここに私の決意を披瀝し、TTレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。右宣言する。

TTレースへの挑戦は二つの意味があった。ひとつはこのレースで優秀な成績を得ない限り、世界のオートバイ市場をイタリア、ドイツなどから奪い取ることは不可能であり、輸出振興の念願は達成できないこと。もう一つは、敗戦直後の日本人に希望を与えた水泳の古橋広之進選手のように、技術でグランプリをとれば、日本人としてのプライドを持たせることができる、ということであった。

宣言の3ヶ月後、本田はマン島で実際のレースを見てびっくりした。ドイツやイタリアのオートバイはホンダと同じクラスのエンジンでも3倍もの馬力を出す。しかしすぐに持ち前の負けず嫌いが頭をもたげる。外国人がやれるのに日本人ができなはずはない。帰国後すぐに研究部を設けて、徹底的に研究を進めた。

5年におよぶ研究の結果、昭和34年125ccでレースに初参加。初陣は6着に終わったが、36年にはTTのグランプリレースに優勝最優秀賞を獲得したほか、スペイン、フランス、西独各地のグランプリ・レースでも優勝。ここに世界一のオートバイを作り上げるという念願を遂げることができた。

スーパーカブの大ヒット

本田の関心はもっぱらスピードと馬力のあるエンジンだったが、藤沢の方は市場を見ていた。折から電気洗濯機、掃除機、冷蔵庫が「三種の神器」として普及し、主婦が消費の主導権を握る時代になっていた。エンジンむき出しのごつごつとしたオートバイでなく、50ccで女性も乗れる家電感覚のオートバイを作ってくれ、と本田に頼んだ。大衆向け商品の大量生産・大量販売を狙ったのである。

本田は「そんな…。50ccで乗れる車なんか作れるものか」と答える。藤沢は「これができなきゃ、本田技研は将来、そう発展しない」と吹き込む。外国にもそんなオートバイはない、と本田が言うと「ないからつくってくれというんだ」。

藤沢の挑発に本田の持ち前の技術者魂が頭をもたげた。着手してから1年8ヶ月という長い開発期間をかけて昭和33年に完成したのがスーパーカブだった。日本中のオートバイ販売台数が月4万台という時代に、藤沢は月3万台を売ってようやくトントンという低価格をつけた。ポリエチレンを使って曲面を押し出したスマートなデザインと相俟って、スーパーカブは大ヒットした。藤沢が発案し、本田がものつくりの才能を傾注した傑作スーパーカブ」は、その後も大きなモデルチェンジをすることもなく、58年目の平成27年には累計生産台数9,000万台を達成した。

アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場

昭和34(1959)年には米国に販売会社「アメリカン・ホンダ」を設立。スーパーカブの米国輸出を目指した。支配人として渡米した川島喜八郎は当初、米国は自動車の国で、オートバイは革ジャンを着た暴れ者の乗り物というイメージを持たれ、年間6万台くらいしか売れていないことから、「アメリカよりも東南アジアの方が手がけやすいのではないか」と提案していた。

だが藤沢の考えは違った。アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場だと考えたのである。

資本主義の牙城、世界経済の中心であるアメリカで成功すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカで成功しないような商品では国際商品になりえない。やっぱりアメリカをやろう。

スーパーカブはアメリカでも人気商品となった。女性が乗ってもスカートがめくれにくいデザインは、従来の暴走族イメージを変えた。250ドルという価格は、大学生がアルバイトで買える値段で、キャンパスへの移動手段として注目されはじめた。グラフ誌「ライフ」に広告をうって、おしゃれで経済的な大衆商品であることをアピールした。

昭和53年にはオハイオ州に工場を建設し、日本メーカーとして現地生産の一番乗りを果たす。その後、四輪車の現地生産も成功させ、日米貿易摩擦が激化した時も、「ホンダはアメリカ経済に貢献している」と評価された。

現在、ホンダのバイクは日本では2割弱しか作っていない。藤沢の「アメリカで成功すれば世界に広がる」という考えは正しかったのである。

99%の失敗

こうして本田と藤沢の夢は見事に実現したのだが、それは決して平坦な道ではなかった。退陣のあいさつで本田はこう言った。

思えば、随分苦労も失敗もあった。勝手なことを言ってみんなを困らせたことも多かったと思う。しかし、大事なのは、新しい大きな仕事の成功のカゲには、研究と努力の過程に99%の失敗が積み重ねられていることだ。これが分かってくれたからこそ、みんな、がんばりあってここまできてくれたのだと思う。…

社是の冒頭にある「世界的視野」とは、よその模倣をしないこと、ウソやごまかしのない気宇の壮大さを意味する。

独創性を尊重し、取引き先、お客様、地域など、直接間接にかかわり合う社会全体を大切にする体質は、理解ある社外の人達の支えがあり、みんなの努力が実って定着した。…

これからも大きな夢を持ち、若い力を存分に発揮し、協力し合い、今より以上に明るく、そして働きがいのある会社、さらに世界的に評価され、社会に酬いることのできる会社に育て上げてほしい。

明日のすばらしいホンダをつくるのは君たちだ。

ホンダを日本と読み替えれば我々現代の日本人全体が味わうべきメッセージであろう。

文責:伊勢雅臣

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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