二度目はない。京都で限定公開中、千利休と狩野永徳「蜜月」の証

 

千家と聚光院の深い関係

聚光院は三好家が信長に滅ぼされると千利休が菩提寺とします。以前から笑嶺和尚から利休は禅を学んでいた経緯があったからだと伝えられています。方丈の北側には千利休150回忌に表千家によって建てられた茶室・閑隠(かんいん)席があります。

利休に関する過去の記事はこちら。

千利休&織田有楽斎ゆかりの名所(メルマガ 「おもしろい京都案内」第3号)

利休と永徳の関係

利休は永徳と運命的な出会いをします。聚光院の百積庭(ひゃくせきのにわ)は利休が作庭したものです。庭の設計の下絵は永徳と伝わります。

当時の権力者たちに寵愛された永徳と茶の道で乞われた利休。2人の蜜月は途方もない芸術を生み出しました。ところがそれから十数年後、永徳が利休に罵声を浴びせる事件が起きます。2人の関係は急速に冷めていきました。

永徳と利休のコラボ

聚光院の花鳥図は東から北面にむかって春、北面の左から西にかけては冬、その左が秋と季節がばらばらに描かれています。それを一つにしているものは水の流れです。東から流れる清流は山から流れ出た雪解け水と合流します。

大地を潤し恵みを与えやがて大河となるその先にあるものは海です。永徳は襖絵に描き切れなかった海を表わすために百積庭の下絵を描き利休に託したのです。百積庭は完成当時、今のような苔むした庭ではなく、白石が敷かれていてまさに海を表していたと伝わっています。永徳と利休の究極のコラボが花鳥図を完成させていたのです。

秀吉は戦国武将の中でも農民の出身で強いコンプレックスを持っていたようです。秀吉は信長の三回忌を行い世の天下人の威厳を戦国武将達に見せつけました。その時に永徳に信長の肖像画を描かせています。自分が信長の後継者だという正当性を名だたる武将達に認めさせるためだったといいます。

永徳はそんな秀吉の威厳を最大限に表現するために大阪城や聚楽第(秀吉の京都の居城)などの障壁画を一手に引き受けました。

その代表的な絵が唐獅子図屏風です。単純な構成ながら大迫力で迫ってくる臨場感のある屏風絵です。元々は屏風ではなく城の謁見の間の壁一面に描かれていたものだと伝わります。武将達はこの絵を秀吉越しに仰ぎ見ることによって威厳を感じずにはいられなかったでしょう。そんな仕掛けがこの絵にはあったのです。

一方、信長の茶頭(さどう)だった利休も本能寺の変の後は秀吉に仕え3,000石の禄(ろく)を賜っています。利休は北野の茶会など秀吉の茶事を仕切り、聚楽第の築庭に携わるなど秀吉の政(まつりごと)にも関わりました。

このように永徳も利休も秀吉を天下人に祀り上げるためにあらゆるバックアップをしていたのです。ところが突然利休が狩野派のライバルである等伯と狩野派をなじったという記事がみつかります。それは当時の絵描きのプロフィールをまとめた本に書かれているものでした。

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