二度目はない。京都で限定公開中、千利休と狩野永徳「蜜月」の証

 

画面を一つにつないでいるものは?

永徳以前の絵は描かれた風景のつながりによって右から左へと画面が展開していくスタイルが主流でした。しかし永徳の時代になると風景のつながりを省略し、描かれた梅や松などだけで画面がしっかりと構成されるようになっていきます。右から左という空間的なつながりから、枝の向きや流れによって視線が移動していく画風に変化していったのです。

聚光院の襖絵に描かれた梅の大木の存在感や部屋の角の折れ曲がる空間を利用して立体的に描かれた松が画面を支配しています。そして襖からはみだすように描かれた枝や生きたように描かれた枝が見る者を誘導するのです。

同時代に活躍した長谷川等伯も大画様式で描いていますが、永徳が作り上げたスタイルというのは桃山時代の様式になっていきました。

長谷川等伯に関して書いた過去の記事はこちら。

全盛期の狩野派を脅かした孤高の天才、長谷川等伯の波乱万丈人生とは

ここで永徳が描いた有名な作品をご紹介しましょう。狩野永徳の傑作中の傑作に洛中洛外図屏風があります。京都の町を事細かに描写した金色の豪華な屏風絵で、祇園祭の山鉾巡行の様子なども描かれている有名な作品です。そこにはおよそ2,500人の人が生き生きと描かれています。

これは信長が上杉謙信に贈ったもので聚光院の花鳥図の前年に描かれた作品だと伝えられています。

聚光院の花鳥図はどのような経緯で描かれたのでしょう?

聚光院は信長以前の戦国の雄、三好長慶(ながよし)を祀るために1566年息子の義継(よしつぐ)が建立した寺院です。そして三好家からの依頼で狩野松栄(しょうえい)・永徳親子が方丈の障壁画を手掛けることになったのです。父・松栄が3つの部屋を、永徳が2つの部屋を手掛けました。

さて本来は四季を描く花鳥図ですが、永徳の花鳥図には夏の風景がないのはなぜなのでしょう?

実は室中の間の北面の襖の向こう側にある襖を開けると仏間があります。そこには僧・笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)の位牌と彫像があります。笑嶺宗訢は臨済宗の僧侶で大徳寺の住持を務め聚光院を開いた人です。

彫像が安置されている場所の下に描かれているのは松栄の蓮池藻魚図(れんちそうぎょず)です。蓮の葉と魚たちが柔らかなタッチで描かれています。仏の空間にふさわしいものといえばです。浄土を意味する蓮の池に魚が泳いでいます。これこそが息子・永徳が描いた花鳥図に添えられた父・松栄による夏の風景です。

夏はお盆などで仏間が開かれているので永徳の花鳥図の襖を開けると父が描いた夏の絵が描かれた襖絵が現れる仕掛けです。そこには大胆で粋な親子が手がけた美の世界があるのです。

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