全盛期の狩野派を脅かした孤高の天才、長谷川等伯の波乱万丈人生とは

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のちに「戦国時代」と呼ばれた1500年代の後期、日本の画壇は言わずと知れた「狩野派」が中心を占めていました。そんな時代に、この狩野派を脅かすほどの画力を持った、ひとりの絵師がいたことをご存知でしょうか。その絵師の名は、長谷川等伯。 無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、等伯の一生を追いながら、一代で稀代の天才・狩野永徳と肩を並べた絵師の唯一無二の美の魅力を紹介しています。

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長谷川等伯 ~日本一の絵師を目指した男~

長谷川等伯は、桃山画壇の覇者、狩野永徳を脅かすほど絵師としての成功を治め活躍した画家です。同時代、世界に類を見ない大絵師集団の狩野派が活躍の舞台を広げていました。中でも天才と言われた狩野永徳が実力を発揮していた時代に等伯は日本一の絵師を目指します。たった一代で肩を並べ、全盛期の狩野派を脅かす存在にまで上り詰めた絵師です。

さて、今回は等伯の生きた時代を時系列順にいくつかの作品を交えて紹介してみたいと思います。前回号でご紹介した「狩野派」や以前取り上げた「琳派」と合わせてお楽しみ頂ければ幸いです。

能登の時代(33歳頃まで)

等伯は、1539年、能登国(石川県)の戦国大名畠山(はたけやま)家家臣の奥村家の子として、七尾に生まれます。幼い頃に染物屋・長谷川宗清の元へ養子となりました。養父に絵を学び、地元で仏画を描く絵師として徐々に活躍するようになります。七尾は当時小京都ともいわれ繁栄し貴族公家たちもよく出向いたと言われています。

1571年、等伯33歳の時、養父母が亡くなってしまったこともあり、家族を連れて上洛しました。当時は平均寿命が40歳という時代。30代で都に拠点を移すというのは相当な決断だったことでしょう。

京都の時代(33歳~40歳頃)

奥村家の七尾の菩提寺本延寺が京都の本法寺の末寺だったので、上洛後、等伯は本法寺を訪ねました。そしてその後しばらくの間この地に居を構えます。本法寺には、今も等伯が上洛した当時の住職・日堯(にちぎょう)上人の肖像画が残されています。

等伯は琳派の祖・本阿弥光悦深い親交があったようです。本法寺は本阿弥家の菩提寺で、光悦が設計した「巴の庭」があります。本法寺のすぐ側には茶道家元の表千家・裏千家の邸宅があり、文化人ととても関係の深いお寺です。

上洛後しばらくして等伯は狩野永徳の門で学びます。しかし、分業主義に徹して弟子は道具としてしかみなされないため狩野派を辞めました。この頃、等伯は狩野派のみならず色々な画派の絵画を学び、独自の表現を生み出していきました。

この頃から等伯は海外と貿易をしていた堺の商人の注文に応じて絵画を描くようになります。親交のあった本法寺の日通上人、茶人の千利休は堺出身者です。

等伯は徐々に有名になっていきますが、狩野派の牙城を揺るがすまでではありませんでした。この頃は天才永徳を棟梁とし絶対的な絵師集団である狩野派の全盛期です。

狩野派は宮中や天下人の仕事を全て独占していました。そのため、信長や秀吉などとは密接な関係を持っていました。他の絵師などが割って入って大きな仕事をさせてもらえるような状況ではありませんでした。

このままでは日本一の絵師にはなれないと思っていた等伯は一世一代の賭けに出ます。大徳寺三玄院の襖に強引に山水図襖」を描いてしまいます。大徳寺の開山春屋宗園襖絵を描くことを認めなかったのですが、等伯は宗園の不在時に襖絵を描き上げたのです。よほど自信があったのでしょうね。

大徳寺といえば当時は日本全国の大名が競い合うように境内に塔頭(たっちゅう)を建て自らの家の菩提寺にしていた時代です。日本全国の大名の目に触れやすい場所に無理やり襖絵を描いたのです。これが評判を呼び、数々の寺院から絵の依頼を受けるようになりました。

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