全盛期の狩野派を脅かした孤高の天才、長谷川等伯の波乱万丈人生とは

 

京都の時代(50歳代)

1590年、狩野永徳の急死により、等伯にチャンスが回ってきます。秀吉の子、鶴松が幼くして亡くなり菩提寺・祥雲寺(後の智積院)を建立、襖絵制作の大仕事が回ってきたのです。これが有名な国宝「桜図」と「楓図」です。色彩と力強い筆力、雄大な構成力を結集して描き上げた金碧障壁画です。

中心には大きく左右に枝を広げる巨大な楓。枝には緑や赤の鮮やかな楓の葉が彩り、脇には美しい秋の草花が画面いっぱいに描かれています。その様子は狩野永徳が生み出した大画様式を彷彿させるとてもダイナミックなものです。それでいて周囲の草花などの自然描写は非常に繊細で等伯のオリジナリティーが表現されています。

傍らには等伯の息子久蔵(きゅうぞう)による「桜図」が並んでいます。見事な枝振りの八重桜が画面いっぱいを花で埋め尽くしています。秀吉は大胆で華麗な構図を大変気に入ったと伝えられています。等伯はこの仕事を通じて名実ともに狩野派に匹敵する絵師になりました。能登の七尾にいたころから天下一の絵師を目指していた等伯の夢が叶った瞬間です。

是非、この傑作を智積院で観てみて下さい。あまりの豪華で迫力ある作品に圧倒されます。

しかし、今度は等伯に不幸が続きます。良き理解者であった千利休秀吉から命じられて自刃します。若くして画才に秀でた等伯の息子・久蔵が26歳の若さで亡くなってしまいます。深い悲しみに見舞われながら描いた中で最も有名なのは、「松林図屏風」です。息子への鎮魂の思いが感じられる渾身の作品です。

京都の時代(60歳代)

息子・久蔵を失ったことは多くの悲しみを等伯にもたらしました。画才を持って生まれてきてくれた大切な跡取りを亡くしてしまったのです。久蔵が描いた「桜図」は、父に勝るとも劣らない傑作です。等伯は長谷川派は次の代も大丈夫だと思っていたに違いありません。

失意のどん底の等伯がやりきれない思いをぶつけて描いた作品があります。国宝「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」です。日本の水墨画の最高峰で、日本で最も有名な国宝の1つです。この作品は東京国立博物館に所蔵されているのですが、なかなか観ることは出来ません。描かれた年代が不明で、完成品ではなく下絵なのではと謎の多い作品です。

霧が立ち込めている空間に、うっすらと浮かび上がる松林が描かれています。まるで墨絵のような絵ですが、見えないものの存在を感じる作品です。空間の無限の広がりや、その場の湿度さえ感じることが出来る様な作品です。

墨の濃淡余白の美を追求した美の境地といえます。描く事のできない空気の重さやしっとりとした感じを描いているのです。

等伯の生きた時代から100年以上後、江戸中期に円山応挙が現れます。彼を一躍有名にしたのは写実主義でした。まるで写真のように鮮やかで現存するものを写したかのような絵を描きました。等伯はこの写実主義の絵画以上に写実的にこの絵を描いています。名付けるならば実存主義現実主義といった感じです。

等伯の故郷・能登半島にこの絵とよく似た風景が広がっているそうです。厳しい風雪に耐えながら立つ海岸の松林。息子や恩人を亡くした等伯の脳裏に浮かんだのは懐かしい故郷の姿だったようです。

観るものに多くの推測を呼び起こさせる作品です。当時の等伯の悲痛な思い孤独感切なさなど様々な感情を感じる事が出来ます。奥行きのある絵というのはこのような作品を指すのでしょう。

もう1つ等伯の代表作を紹介します。「涅槃図」です。

等伯は、久蔵の死の七回忌の時に、大涅槃図を描いています。等伯は七尾時代に仏画を描いていました。涅槃図は恐らく得意な画題だったことでしょう。それだけに、この絵には彼の全エネルギーと魂が込められているのでしょう。大きさをとっても縦10m横6mもあります。

涅槃図というのは釈迦の入滅を描いたものです。釈迦の死を嘆き悲しむ弟子や動物たちの姿が描かれています。長谷川派一門を上げて描かれたこの絵の釈迦は亡き息子、久蔵だったのかも知れません。恩人たちをも亡くした等伯自身の姿を投影したものと伝わっています。この涅槃図は、東福寺大徳寺のものと合わせて京都の三大涅槃図と呼ばれています。

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