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「雨ニモマケズ…」幼少期の暗誦が日本語という「祖国」を作る訳

小中学校の授業で、難しい文章を意味もわからないまま「暗誦」させられた経験は誰にでもあるものですが、「こんなことして何の意味があるのかな」と、幼いながらに思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、そんな疑問が氷解するような、暗誦がもつ「深い意味と不思議な力」が紹介されています。

国語の地下水脈

私(わたくし)、生まれも育ちも葛飾(かつしか)柴又(しばまた)です。帝釈天(たいしゃくてん)で産湯(うぶゆ)をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。

ご存じ寅さんの口上(こうじょう)だ。声に出して読んでみて欲しい。腹から声を出すのだが、あまりドスを効かせず、やや高い声で歯切れよく。首を少し傾けて、口を横に引っ張り、不自然にほほえむようにすると良いという。短くテンポも良いので、すぐに覚えられるだろう。覚えたら文章を見ずに、声に出して貰いたい。渥美清演ずる、おっちょこちょいの寅さんが精一杯気取って、名乗りをあげる様を想像しながら。

こうして何度か声に出していると、自分が寅さんになったような気がしてくるから不思議である。言葉とはそもそも文字を目で追うものではなかった。身体を使って声に出し、そのリズム、高低、強弱、息づかい、身振り手振りなど、身体全体で相手に自分の心を伝えるものであった。したがって寅さんの口上を真似すれば、寅さんの心が乗り移ってくる。言葉にはそういう不思議な力がある

子供たちの心にエネルギーを伝えていく言葉

身体を使って言葉を発することで、心が伝わるのなら、それは子供の教育にも使えるはずだ。エネルギーのこもった文を声を出して読み上げることにより子供たちの心にもエネルギーが伝わっていく。たとえば、次の一文などはどうだろうか。

水を両手で掬(すく)って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々(きぎ)の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事(いちじ)だ。走れ! メロス。

太宰治の走れメロス」の一節である。声に出して朗読してみて欲しい。「義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である」「私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ」と、たたみかけて、心の底からだんだんエネルギーが湧き上がってくる感じである。そのエネルギーあふれるリズムが次第に高まって、ついには「私は、信頼に報いなければならぬ。」「いまはただその一事(いちじ)だ。」「走れ! メロス。」と断固たる決意に昇華する。主人公の心の動きと見事に一致したリズムからメロスの雄々しい心が伝わってくる。

そしてその間に「斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている」という静かな、目にも鮮やかな一瞬の光景が挟まれている。こんな美しさと力強さに溢れた名文を小学生の時から暗唱・朗唱していたら、子供たちは無気力・無関心・無感動などにはならないであろう。

雨ニモマケズ

子供たちに学んでもらいたいのは、美しさや雄々しさだけではない。忍耐強さや思いやりも身につけさせたい。それには宮沢賢治の雨ニモ負ケズ」が良い(空行は弊誌で挿入)。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテイル

 

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ

 

東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ 
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

 

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」と出だしから、マ行の音が続いて、いかにも「もたもた」したリズムが木訥な生き方をそのまま現している。東西南北を歩き回って一生懸命、周囲の人々を助けようとするが、涙を流したり、おろおろ歩いたりと、たいしたことはできない。だから誉められもしないし、苦にもされない。しかし、そういう地道で誠実な生き方こそ尊いのだ、というメッセージが木訥なリズムの中に充満しているからこそ、この詩が多くの日本人に長らく愛唱されてきたのだろう。

勉強やスポーツなどできなくとも、思いやりをもって生きることこそ大切なのだ、ということを、この詩を暗唱することで、子供たちに感じ取って欲しいものだ。

祖国とは国語

ある一人の天才が残した言葉が、多くの人々に愛唱されることによって、その心の中に生き続け、その感性を育てていく。また後に続く世代もその言葉を教えられることによって、先人の感性を継承していく。こうして一つの民族は言葉によって共通の感性を育てていくのである。

特に我々日本人は、はるか神話の時代から日本語を育て、また日本語に育てられてきた。その一例として「に関して日本人の感性を磨きあげてきた文章をいくつか挙げてみよう。

石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも
(志貴皇子、奈良時代)

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
(枕草子、平安時代)

春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)
(与謝蕪村、江戸時代)

春のうららの隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂(かい)のしずくも花と散る 眺めを何にたとふべき
(武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲、明治時代)

「石ばしる」から「春のうららの」まで1,200年ほども離れている。我々日本人はかくも長い間、繰り返し繰り返し、春を愛でる言葉を生み出し、またその言葉を暗誦することで春を愛おしむ感性を磨いてきたのである。

私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ。それ以外の何ものでもない。

とは、フランスのシオランという哲学者の言葉だそうだが、まさに日本人とは日本語の中に生まれ育ってきた民族である。

外国語の文を吸収してしまう力

日本語の力は、また外国語の名文を取り込んで吸収してしまう処にもいかんなく発揮されている。

年々歳々 花相似たり 再々年々 人同じからず
(劉希夷)

国破れて山河あり 城春にして草木ふかし
(杜甫)

これらの江戸時代までの漢文に替わって、明治以降は西洋の名詩・名文もさかんに訳されて、人口に膾炙していく。

山の彼方(あなた)の空遠く
幸い住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く
幸い住むとひとの言ふ。
(カール・ブッセ、上田敏訳)

秋の日の ヴィオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し。

 

鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて
涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや。
(ポール・ヴェルレーヌ、上田敏訳)

私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ
(ジャン・コクトー、堀口大学訳)

明治、大正、昭和の激動の時代に生きた我々の祖父母や両親の世代は、これらの西洋詩を口ずさみつつ、多感な青春の日々を送ったのである。

暗誦は強制?

しかし、現代の日本では、詩や名文を暗誦したり朗誦することが、当たり前ではなくなってきた。大学生に好きな詩や文で暗誦できるものを持っているかを聞いたところ、5パーセント以下という結果が出た。…

 

小学校の授業においても、暗誦や朗誦の比重は低くなってきているように思われる。詩の授業を参観しても、その詩を声に出して朗読したり暗唱したりすることはあまりおこなわれず、詩の解釈に時間が割かれることが多い。

と、語るのは、ベストセラー『声に出して読みたい日本語』『同・2」』の著者・斎藤孝氏だ。

暗誦が衰退した背景には、暗誦文化が受験勉強の暗記と混同されたという事情がある。年号の暗記や些末な知識の詰め込みに対しての拒否反応が強かったために、覚えること自体が人間の自由や個性を阻害するものと思われた。
(『声に出して読みたい日本語』)

と斎藤氏は推察する。意味も分からないまま文章を暗記させるのは一種の強制であり、それでは自由な個性や創造力は伸びない、という浅薄な思いこみがあったのだろう。基本の型を徹底的に体得することなしには一流の個性も創造もありえない、という事は、何か一つ芸事やスポーツを習った経験のある人ならすぐに分かることなのに。

名文名句のリズムを身体に覚え込ませる

幼い時期、たとえば小学校就学以前の子どもに、漢詩や和歌を暗誦させるということは、果たして拷問であろうか。あるいは、そのようなことがそもそもできるのであろうか。こうした疑問に対する一つの実践的な解答として、私は大阪のパドマ幼稚園の実践に出会った。そこでは、年少組から漢詩を速いテンポで朗読・暗誦していた。年少組や年中組の子どもが李白や杜甫の詩を大きな声で暗唱・朗誦する様は衝撃的であった。

 

その衝撃はけっして嫌な感じのものではなく、むしろ小気味良いものであった。子供たちの表情は生き生きとしており、速いテンポでそうした調子の良い詩文を朗誦することを、からだごと楽しんでいることがはっきりわかった。これは、詰め込み式の早期教育とは一線を画する実践である。
(『声に出して読みたい日本語』)

「百ます計算」で有名になった陰山英男先生も、長文の素読・暗誦を小学生の授業に取り入れた所子供たちが一生懸命取り組んだ、という実践事例を報告している。

子供たちは、大人以上に身体が柔らかい。リズムやテンポを楽しむ身体感覚が優れている。蕪村や一茶の俳句や宮沢賢治の詩を暗唱している幼児を見ると、それが彼らの身体を喜ばすことになっていると感じる。
(『声に出して読みたい日本語』)

頭で理解させようとするから難しくなり、子どもの方も面白くない。多少分からない所があっても名文名句のリズムを楽しみ身体に覚え込ませる。それは幼児のうちからモーツァルトを聞かせて、音楽の感性を養うのと同じである。

よき人生の道連れを得た喜び

斎藤氏はまた老人方を相手にこんな経験もしている。

私は70代の方々のゼミを数年間担当していたことがあるが、その方々が子どもの頃に覚えた言葉を今でもすらすら言えることに驚いた。そして、そうした言葉を朗誦しているときの、その方々の顔が喜びにあふれているのを目の当たりにした。
(『声に出して読みたい日本語』)

子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において自分を導き支え励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。

自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。

国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1、2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。疲れ果てた身体でも、岩の裂け目から流れ出る清水を見つけて一口飲めば、そこから我々は新しい力を得るだろう。メロスのように。

ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生まれた。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock.com

 

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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