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国に喧嘩を売った電力の鬼・松永安左ヱ衛門の知られざる生涯

今でこそ「民営化」は当たり前となりましたが、その流れにたどり着くまでに、先人たちのたゆまぬ努力があったことを忘れる訳にはいきません。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、旧態依然の体制に異を唱え真っ向から権力に立ち向かい、「電力の鬼、電力王」とも呼ばれた偉大な先人、松永安左ヱ衛門の生涯が紹介されています。福沢諭吉の強い影響を受けたという、同氏の信念とは…?

松永安左ヱ衛門~自主独立と民営化の精神

松永安左ヱ衛門(やすざえもん)は明治8(1875)年、長崎県壱岐の富裕な商家に生まれた。幼い頃から、広い世界に出たいと志した松永は15歳にして上京し、慶應義塾に入って福沢諭吉の薫陶を受ける。福沢の独立自尊の信念に強い影響を受け、これが後に官僚統制や独占企業と戦う松永の姿勢を培うことになる。

明治43(1910)年、35歳にして水力発電による電気供給を行う九州電気株式会社を設立し、取締役となった。それまでの電気会社は電信柱1本につき、30灯以上の申し込みがないと電線を引かないという規定を設けていたため、多くの地域が電化から取り残されていた。松永はこれを撤廃し、さらに料金を10ワット1円20銭から80銭に大幅値下げした。

電力のようなネットワーク型事業では、売上げ規模が大きいほど、効率が高まり、収益もあがる。松永はそれを見越して、徹底的な需要開拓を行ったのである。それは同時に今まで電化から取り残されていた人口過疎地域や貧しい家庭にも電化の恩恵を行き渡らせることでもあった。

大正3(1914)年、第一次大戦が勃発すると、日本は戦争特需で急速に工業化が進み、エネルギー需要も急増した。雨後の筍のように各地に電力会社が生まれ、その数は1,000を超えていたと言われる。松永は近畿、東海地方の群小電力会社を次々に統合して、大正11(1922)年には1府10県に供給する東邦電力を設立。まさに電力の戦国時代にあらわれた織田信長だった。名古屋では3万5,000キロワットの最新鋭火力発電設備を米国から2台導入した。まだ米国でも稼働していない最新最大の設備だったので、ニューヨークタイムズ誌にも報道された。

大正15(1926)年、東京での営業許可が下りると、松永は「良質低廉サービス」をモットーに猛烈な売り込みを開始した。打倒すべきは日本で最も古い伝統を持ち、規模も断然大きな「東京電灯」。政治と結託し、独占的利益を欲しいままにする東京電灯を嫌って、松永に肩入れする企業も少なくなかった。

「統制経済をやる大政翼賛会は私の仇敵だよ」

1929(昭和4)年10月、アメリカに始まった大恐慌はほどなく日本を直撃し、労働者や農民の困窮が深まると、電力国営化論が盛んに論じられた。同じ基幹産業である鉄鋼は官営の八幡製鉄以来、国策に貢献してきたのに、電力では怪しげな資本家たちが国民を搾取している、というのである。第一次近衛内閣で、電力国家管理案が検討され始めると、松永は近衛首相に詰め寄って言った。

国家が要求しているのは電力というエネルギーでしょう。事業ではないはずです。軍部や官僚は国家主義のイデオロギーにとらわれている。あのような主張に押し切られるようでは政治家としてまことに頼りがない。ここはひとつ毅然たるところを示してほしいのです。
(『日本経済の効率性と回復策に関する研究会(2)報告書 第6章』矢島正之・著/財務総合政策研究所)

「分かりました」と言う近衛ののっぺりとした顔を、松永は心もとない思いで眺めた。およそ20年前、松永はパリで近衛と連れだって娼家に遊びに行ったことがある。明日もまた来るから、と約束して、松永が翌日行くと、近衛は来ていない。近衛にすっぽかされた女は、日本人は信用できない、と松永に怒りをぶちまけた。後で松永が近衛に理由を聞くと、別の女の所に行っていたという。松永はこれで近衛という男の正体を知った

昭和14年4月、電力管理法による日本発送電株式会社が誕生。発電と送電を一手に独占する国営会社である。松永はこれに一切協力しない方針をとり、東邦電力からは役員を一人も出すな、と厳命した。

挙国一致体制を確立したい近衛は、松永に大蔵大臣への就任を打診したが、にべもなく断られた。あきらめずに「それでは、大政翼賛会に入って、指導していただけないか」と粘ると、「なおさらいやだ。統制経済をやる大政翼賛会は私の仇敵だよ

松永は武蔵野の雑木林の奥に隠棲してしまった。

「今度は、電力会社を真面目な私企業にするつもりだ。」

敗戦の日、すっくと立ち上がった松永は、こう言い放った。「さあ、これからは、僕がアメリカと戦争する番だ」。しかし、戦う相手はアメリカだけではなかった。

戦災により国民総生産は10年前の60%前後にまで落ち込んでおり、その復興のために深刻な電力不足をどうするかが、緊急の課題となっていた。同時に戦後の電力供給体制をどうするのかが政治問題として浮上していた。昭和24年の秋、電気事業再編成審議会が発足し、74歳の松永が委員長に引っ張り出された。

日本発送電は今までの発電・送電の一社独占を維持したまま、さらに配電事業まで吸収した形で民営化する、という案を打ち出した。同社の戦闘的な労働組合は、すべてを国有化する「電力民主化案」を作成し、社会党と共産党もこれに賛同した。ほとんどの官僚や政治家も一度、握った統制権力を手放すまいと、一社独占の案に賛成だった。戦前の経済統制も戦後の社会主義も根は同じなのである。

審議会では、松永はただ一人電力会社の9分割案を主張して、他の委員と対立した。「自由放任主義というのは、一昔前の経済で、今は国が民間への介入を強めている時代です」という意見に、松永は、

いまが変なのだよ。戦前の民間経営の時代には競争を通じて血の出るような経営努力がされていた。今度は、電力会社を真面目な私企業にするつもりだ。
(『爽やかなる熱情 電力王・松永安左ヱ衛門の生涯』水木楊・著/日経ビジネス文庫)>

今でこそ国営独占企業の非効率が明らかになり、民営化が当たり前の世の中になったが、当時は英国の労働党政権が主要産業を次々と国有化しつつあり、国内でも社会党や共産党が全盛の時代だった。松永の先見性についていく人は少なかった。

「自分の手柄などどうでもいい」

一方、占領軍総司令部GHQ)では、州単位で電力供給するアメリカの方式を下敷きにして電力会社を地域毎に9分割し、さらに各社に電力供給する発電専門の会社を作る案を考えていた。松永はこれでは独占が残ると何度もGHQに足を運び、根気よく説明したが、担当官も頑固で自説を曲げなかった

親しい人が、GHQ案に「そろそろ賛成したらどうですか。委員長としての手柄になりますよ」と忠告すると、松永は怒った。

馬鹿者! 電力事業をいびつにしてもいいのか。電力事業は日本復興の原動力なんだ。親方日の丸のすねかじりや、権威主義は打破しなければ、どうなる。電力会社が自力で立ち上がらないことには、復興などできはしない。合理性や近代性に欠ける案はうけいれるわけにはいかない。自分の手柄などどうでもいい。
(同上)

日本の自主独立のためには、電力会社の自主独立が必要であり、そのためには自由市場競争がかかせないという松永の主張は、まさに福沢諭吉の精神そのものである。

宰相の器

結局、審議会は松永一人の抵抗で両論併記という異例の結論となった。その直後、池田勇人が通産大臣兼大蔵大臣に就任した。松永はすぐさま官邸を訪れて、大きな青写真や計算書を拡げて、数字を縦横に使いながら、自分の考えを説明した。

私は商売人ですから、どうやって儲ければよいのか知っています。しかし、今の私はもう商売をして儲けようとは思っていません。その代わり、国を儲けさせて、国民全部に良い生活をしてもらいたい。国を儲けさせるくらいのことは、私から見れば簡単なことです。そのために必要なのが私の主張する電力再編案です。

76歳の老人が、情熱を込めて説明する。言っていることも筋が通っている。これは人物かもしれない、と池田は直感した。「よろしい。あなたの案で行きましょう。私にお任せください」と決断した。

この決断に松永も宰相の器を見出した。以来、池田は松永を父親のように慕い、松永は池田政権の発足時には物心両面から力を貸した。この池田政権が天才エコノミスト下村治の描いた「所得倍増計画」を実行し、日本に高度成長をもたらす。

「電力の鬼・松永を倒せ」

池田は松永案を「電気事業再編法案」などにまとめ、国会に提出した。しかし、日本発送電は様々なコネをたどって政財界有力者に反対工作を行った。その労働組合も10万余の組合員を動員して停電ストライキをうち、赤旗を掲げて「電力の鬼・松永を倒せ」と叫びながら各地でデモを行った。主婦連も「民営化されれば、資本家達は大幅値上げして私たち庶民を搾取する」とシャモジを突き上げて反対した。松永はそういう主婦連幹部の集まりにも顔を出して自説を説明して廻った

財界からも反対されて四面楚歌となった松永は、ひるむどころか、新聞や雑誌のコラムでこう経営者たちを痛罵した。

統制経済の害悪は経営者に耳だけを持たせ、目も口もない人間にしてしまった。まるで自主性がない。つねられても痛いとは言ってはいかんという性格になっており、この石頭を破らなければ世の中は良くならぬ。
(同上)

しかし昭和25(1950)年5月、法案は審議未了となり、廃案が確定した。与野党は次の国会に向けて、共同で新しい法案の用意を始めた。

「ミスター松永、私はあなたに負けた」

万事休す、と見えたこの時に、思わぬ援軍が現れた。GHQのケネディ顧問である。ケネディはオハイオの電力会社の会長で、電力再編の顧問としてGHQに招かれていたのである。松永はケネディにも頻繁に会って自説を説き、ケネディも敗戦国民だからといってぺこぺこしない松永に好感を持っていた。

ミスター松永、私はあなたに負けた。あなたの案は現実に即している。電力会社に自主独立を求めるあなたの案は本物だ。9ブロック案でいきましょう。私も大いに力になるつもりです。

ケネディの判断によって、GHQはにわかに松永に友好的となった。頑固に自説を曲げなかった担当官も「あなたの熱心さには敬服しました」とシャッポを脱いだ。

10月、マッカーサー元帥は吉田首相あてに松永案による電力再編を実施せよとの政令を出した。連合国最高司令官の特別命令では、占領下の日本政府は拒否できない。12月には地域別に発電から送電・配電までを一貫して行う民営9社と、通産省から独立してこれらを統轄する公益事業委員会の発足が決まった。今日の電力供給体制がここに固まったのである。

「死んで仏となりて返さん」

しかし、松永の戦いはまだ終わってなかった。分割解体となった日本発送電は少しでも勢力を温存しようと、自社の人間を民営9社のトップに送り込もうとする。それではせっかくの自主独立の体制も骨抜きになってしまうと、松永は公益事業委員会の中で頑強に抵抗し、自主独立の精神を持つ人物を起用しようとした。

その一人に京阪神急行(阪急電鉄の前身)社長だった太田垣士郎がいる。太田垣は国会の公聴会で「経営責任体制の確立」を主張して、松永案を熱烈に支持した数少ない人物の一人である。松永は太田垣に目をつけて、関西電力の社長に据えようと、阪急の創立者・小林一三に頼みこんだ。しかし小林は、太田垣は病弱で、新会社の難局に当たらせてはその命を奪いかねないと断った。松永はこう言い張った。

今回の一件は国家の将来にも影響を与える大事なのだ。その事態の中で、仮に太田垣君の生命が奪われたとしても、それは男子の本懐の部類に属することだ。
(同上)

この言葉を小林から聞いた太田垣は「松永さんがそこまで言われるならば、自分の余生はなくなったものと覚悟して、やらせていただきます」と答えた。

松永は太田垣を関西電力の社長に据え、「クロヨン・ダム」(黒部川第4発電所)建設に踏み切らせた。人跡未踏の北アルプスの真ん中に、大発電所を建設しようという壮大なプロジェクトである。日本の高度成長を担う電力供給体制はこうして築かれていった

松永は昭和46(1971)年6月16日、数え年97歳で死去。

生きているうち鬼といわれても 死んで仏となりて返さん

松永安左ヱ衛門は「電力の鬼」と言われながら、こんな歌を笑顔で詠んだ。我々子孫のために獅子奮迅の働きをして、素晴らしい遺産を残してくれた松永は、まさに仏様である。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock, Inc.Wikimedia Commons

 

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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