西郷どんは4日後に戦争突入。歴史上の人物は40歳頃ナニしてた?

 

◎藤原道長(966年-1028年1月3日)

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのが1018年、52歳のこと。40歳の1006年のことは分からないのですが、1000年に長女である彰子を一条天皇の皇后(中宮)にしています。

1008年、彰子は後の後一条天皇である敦成親王を出産、翌年は後の後朱雀天皇となる敦良親王を出産。40代の道長はこの世の春を謳歌していた感じですね。

紫式部日記にも、初孫にメロメロな道長の様子が書かれています。どれほどのメロメロっぷりかというと、抱いてた孫が粗相してしまい、濡れた着物を自ら火で乾かしながら、おしっこされて濡らされて、嬉しいなあ、と呟くほど。1008年、42歳です。

◎源頼朝(1147年5月9日-1199年2月9日)

源頼朝の40歳は1187年。イイクニ作ろう鎌倉幕府の少し前で、イイハコ作ろう鎌倉幕府の少し後です。国内の平定を進めている時期であり、奥州の藤原秀衡が没したのが1187年。

義経が平泉に落ち延びた年の暮れのことで、二人の息子国衡、泰衡と義経に、義経を主君として結束するよう遺言したそうです。

頼朝の圧力に屈した泰衡が義経を討ったのが、1189年のこと。頼朝と義経は12歳離れていて、義経は30歳で亡くなっています。

◎楠木正成(1294年-1336年7月4日)

楠木正成が40歳を迎えた1334年は、建武元年。後醍醐天皇が親政を始めた翌年で、建武の新政まっただ中。

楠木正成としてはやり遂げた感でいっぱいだったと思うのですが、この年、楠木正成の後ろ盾であった護良親王が謀反の嫌疑をかけられて失脚。楠木正成も役職を辞任しています。

翌1335年に足利尊氏が離反。正成は天皇に尊氏との和睦を進言するも却下され、ならばと迎え撃つための策を進言するも却下され、それでも天皇に尽くして、望みのない戦場へ投入されて、1336年湊川の戦いに敗れて自害42歳でした。

足利尊氏の40歳は1345年。1338年に征夷大将軍に任ぜられ、後醍醐天皇の南朝と抗争を続けつつ、身内の足利直義と高師直が対立を深めていった時期です。

楠木正成の嫡男、小楠公こと楠木正行が父の遺志を継いで南朝方として四條畷の戦いに臨み、敗れて自害したのが1348年。22歳でした。

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