幼い頃に祖母が聞かせてくれた昔話、幼稚園の先生が教えてくれた歌、小学校の運動会で取り組んだ競技―。そんな一見何でもないような原体験が、後の人生を大きく左右することがあります。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』でご紹介する、講談社の創業者・野間清治氏もこんな「原体験」を持つ一人です。尋常小学校での体験から始まる「雑誌王」と呼ばれた氏の人生、一体どのようなものだったのでしょうか。
「私設文部省」野間清治
明治28(1895)年、群馬県の埼玉県との県境近くにある木崎尋常小学校で、生徒たちに抜群の人気のある代用教員がいた。正規の先生が休みで、彼が代わりに授業に行くと、生徒たちが教室の窓から顔を出して、やって来るのを待っているというほどの人気者だった。
まだ17歳で、生徒たちの兄貴分のような存在だった。授業では、ときどき脱線して、滝沢馬琴の伝奇小説『南総里見八犬伝』を子供たちにも分かるように面白おかしく工夫して聞かせた。
そもそもわが祖は一族たる、新田義貞朝臣(あそん)に従ひて、元弘(げんこう)建武(けんむ)に戦功あり。
といった名調子を交えて、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の数珠を持ち、犬塚、犬飼など「犬」の字を含む苗字を持った8人の若者たちが善を助け悪を懲らしめる冒険物語が展開される。彼自身、高等小学校で先生から『八犬伝』の話を聞いたことがきっかけになって、何度も読み返し、名文句は書き抜いておいたほどである。
子供たちはチャンバラの場面などに手に汗を握りつつ、仁・義などの徳目を自然に学んでいった。正規の授業で「ここのところだけ覚えてしまったら『八犬伝』の話をしてやろう」というと、子供たちは一生懸命になって覚えてしまった。
若き代用教員は、こうして「面白くて為になる」物語が、いかに子供たちの成長に良い影響を与えるかを知った。これが、後に講談社を設立する野間清治の原体験となった。
受験場での大演説
人の前で話をしたい、というのは、野間の子供の頃からの習性であった。23歳の時、東京帝国大学文科大学(今の東大文学部)に中等教員の養成所ができるという話を聞いた野間は、一も二もなく受験をしてしまった。
入学試験会場には150人ほどが、緊張した面持ちで集まっている。これらの人を見て、人の前で話をしたいという習性が首をもたげてきた。「諸君!」。そう言った途端に、受験生たちが聴衆に見えてきた。もう止まらない。
諸君は、なんのためにここへ来たのであるか。おそらく入学を望んできたのであろうが、遺憾ながら諸君全部に入学を許すわけにはいかない。わずかに30名と限定されているのである。自分の力を知り、いたずらに無用の手間をかけることを遠慮し、己の欲するところをまず人に施すの心をもって、潔くこの場から帰りゆく者はいないか。
と、いささか勝手な提案から初めて、延々20分もの大演説となった。最後に、
もじもじしているところをみると、どうしても諦めきれず、試験だけでも受けさせてもらいたいのであろう。必ずしも悪いとはいわぬ。少なくとも一つの経験にはなる。敗るるまでやるというのも男子の本懐だ。結果は不明だが、あまり期待をかけずにとにかく最善を尽くしたまえ。
と締めくくると、受験生は手を叩いたり笑ったりで、やんやの騒ぎになった。
当の野間はあっさり試験に合格した。試験は作文のウェイトが高かったが、野間は『八犬伝』中の名文句を暗記していて、それらを使って格調高い文章を書けたからである。
沖縄でも「八犬伝」式
野間は知り合いから借金をしまくって、なんとか2年間の教員養成所を卒業した。たくさんの本を読み、寄席や演説会に通い、先生方と学生との親睦会を自分で開いては、そこでも演説をぶったり、と充実した2年間だった。面白い奴だ、と野間は先生方にも、学生たちにも好かれた。
卒業後の就職先には「一番給料の高いところ」を希望して、沖縄県立中学に決まった。借金もあるし、また早く金を作ってさらに高い教育を受けたいという気持ちだった。
ここでも「英雄豪傑の物語、勇壮豪快、胸をわくわくさせるような例の八犬伝式の説話を試みて」8つの徳目を教えていった。やはり野間の授業は、大人気だった。
沖縄で2年間、愉快な生活を続けていると、文科大学の書記長から、東京に戻ってこい、という電報を受け取った。東京帝国大学法科大学の首席書記に欠員ができて、大勢の人がこの地位を狙っているが、野間を教えた先生方が熱烈に推薦してくれたのである。
沖縄を離れる日、桟橋から波止場まで黒山のような群衆が集まり、野間を送り出してくれた。
「雄弁は世の光である」
時に日露戦争が終わり、日英同盟が結ばれて、国内でも議会制度が発達し、弁論が重視されるようになった。東大でもオックスフォード大学に倣って弁論部が作られ、第一回の演説会が明治42(1909)年11月14日に開かれた。集まった聴衆はなんと千数百人。その前で教授陣、在野の言論人、そして学生代表が熱弁を振るった。
この時、野間はあるアイデアを持っていた。天下に名の聞こえた教授たちや言論人の講演を速記にとって、それを雑誌で出版しようというのである。教授たちや学長も「雑誌経営は難しいぞ」と言いながら、おおむね賛成してくれた。
編集元として「大日本雄弁会」という大げさな名前の会を作り、たまたま同じく「大日本」の名を冠した「大日本図書株式会社」という出版社を電話帳で見つけた。すぐに会社を訪ねて、計画を熱を込めて説明した。東大の先生方も応援の電話をしてくれて、雑誌出版を引き受けて貰った。
雑誌のタイトルは『雄弁』とし、「発刊の辞」では訴えた。
雄弁衰えて正義衰う。雄弁は世の光である。雄弁に導かれざる社会の輿論は必ず腐っている。雄弁を崇拝することを知らぬ国民は必ず為すなきの民である。文化燦然(さんぜん)たる社会には、常に雄弁を要する、又雄弁を貴ぶ気風がなくてはならぬ。…
(『「仕事の達人」の哲学』渡部昇一 著/致知出版社)
「雄弁衰えて正義衰う」とは、国会においてすら、まっとうな議論の行われない今日の日本に警告しているかのようだ。
創刊号は明治43(1910)年の紀元節、2月11日に発売された。初版の6,000部はその日のうちに完売し、第2版3,000部、第3版5,000部と矢継ぎ早に増刷し、結局1万4,000部も売れた。当時、最も売れていた雑誌が2万部だったので、創刊号から1万4,000部とは、まさに驚異的な売れ行きだった。
『講談倶楽部』創刊
『雄弁』の成功に力を得て、野間は新しい企画を考えた。『講談倶楽部』という新しい雑誌の発刊である。当時、文部省は社会教育に乗り出していた。一般民衆に、忠孝仁義などの道徳を教え、理想的な日本国民に育てようという活動である。しかし、高級な本や雑誌はあったが、広く一般国民に受け入れられるような教材がなかった。
そこで、野間は講談に目をつけた。講談の中から適当なものを読み物にしたら、民衆教育の絶好の教材になるのではないか、と考えたのである。小学校の代理教員時代に、子供たちに『八犬伝』を話して聞かせた体験がもとになった。
ただ『講談倶楽部』は柔らかい雑誌なので、「大日本雄弁会」とは別の出版の方が良いと考え、新たに「講談社」を設立した。
『講談倶楽部』創刊号は、明治44(1911)年の天長節(今の文化の日)に発売された。創刊号は1万部刷ったが、売れたのはわずか1,800部で、書店から返本の山が戻ってきて、置き場所に困るほどだった。2号は8,000部刷ったが、売れたのはわずか2,000部。
『雄弁』が初めから成功したのは、東大教授陣という信用があったからだった。野間は信用というものが、いかに重要かを思い知らされた。
窮地に陥った野間は、早朝から深夜まで駆けずり回り、帰宅してからも原稿の依頼、借金の申し込み、読者の勧誘など、一晩に30通もの手紙を書いた。こうして一年ほど頑張っていると、『講談倶楽部』も徐々に売れ行きが増えて、黒字になっていった。
「成功への一番の近道は道徳的な道」
『講談倶楽部』では、講談の速記だけでなく、小説家や伝記作家に、講談同様の面白い物語を書いて貰うようにした。
『宮本武蔵』の吉川英治、『半七捕物帳』の岡本綺堂、『鞍馬天狗』の大佛次郎、『怪人二十面相』の江戸川乱歩、さらに、直木賞の直木三十五、雑誌『文藝春秋』を創刊した菊池寛など、みな『講談倶楽部』から世に出た大家である。今日、大衆文学、大衆小説と呼んでいる分野はここから始まったと言える。
『講談倶楽部』の成功体験から、野間は成功への一番の近道は、道徳的な道であることを知った。雑誌にしても、人間の卑しい欲情に訴えることで売れる場合もあるが、そんなものは長続きしない。それよりも、道徳的な話、感激する物語の方が、人を引きつける。
野間自身も道徳的な目的で雑誌を出すのだという信念があったから頑張れたのだし、世のため人のためという信念を貫き通していると、世間も信じてくれるようになる。それがじわじわと販売部数を伸ばし、黒字になる所までいった理由であった。
この事が分かってから、野間は少年の道徳心を高めるための第三の雑誌『少年倶楽部』を創刊する。忠臣孝子、英雄偉人、勇将烈士などの物語に沿えて、色刷りの美しい口絵や挿絵を入れ、著名な学者、軍人、政治家などの執筆した「面白くて為になる」話を加えた。編集も「一字でも誤植があれば、天下の子供に害を与える」と細心の注意を払った。
読者の評判は上々だったが、とにかく金がかかっているため、赤字が続いた。毎月、莫大な損失を出しながらも、野間は『少年倶楽部』を出し続け、やがて部数を大きく伸ばして、ついには成功にたどりついた。
野間はさらに美談逸話を満載した『面白倶楽部』、『現代』、『婦人倶楽部』、『少女倶楽部』と、次々に雑誌を増やしていった。
「国中が明るく美しくなるように」
そして大正13(1924)年末に、雑誌『キング』を創刊する。外国の雑誌には発行部数が100万部を超えるものがあるということに刺激され、野間自身が「私がそれまでに企図した最大の計画」として、5年前から周到に準備した企画だった。
野間は『キング』を日本全国に広げることによって、日本中に良風美俗がおこり、国中が明るく美しくなるように、と願っていた。この意気込みを受けて、社員も家族も徹夜で、編集や広告用の立て看板作りに打ち込んだ。
創刊前から予約が殺到し、予定していた50万部が売り切れてしまった。その後も重版に継ぐ重版で結局創刊号は74万部が売れた。『キング』はその後も部数を伸ばし、1年後の新年号は、150万部を刷るまでになった。
『キング』は道徳的な内容といっても、面白い読み物が満載である。総振り仮名なので、仮名さえ読めれば誰でも読め、そのうちに漢字も覚えてしまう。
『キング』の読者からは講談社に感謝の手紙が届くようになった。「素行のよくない息子が『キング』の中にある話を読んで、夢から醒めて家に帰ってきた」「『キング』を読むようになってから、嫁と姑が急に仲むつまじくなった」等々である。
「この国には希望だけがない」
戦後、韓国のある大学の学長が講談社を訪ねてきた。その理由は、「自分の青少年時代に生き方を教えてくれた出版社に表敬訪問したかったから」だったという。
講談社の「面白くて為になる」雑誌は、青少年にわくわくするような偉人伝や心にしみいる美談逸話を提供し、人生における心構えや志を育てていったのである。この人が大学の学長までになったのも、これがエネルギーとなっていたのであろう。
明治・大正期の言論人・徳富蘇峰は「野間さんは私設文部省であった」といったが、有為の青年を育てた野間の功績を称えた言葉である。
「面白くて為になる」を目指した野間のアプローチは深刻な問題を抱える現代日本の青少年教育に有益なヒントを投げかけている。
小説家・村上龍氏は「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。でも、希望だけがない」と小説の登場人物である中学生に語らせている。この台詞(せりふ)には、多くの人が共感するだろう。
野間は「面白くて為になる」物語を通じて、青少年の心に希望の灯を点したのである。希望とは外から与えられるものではなく、青少年が自分自身の心の成長の過程で、自分なりに描いていくものなのではないか。
我が国の歴史は、青少年がわくわくするような偉大な人物や事績、美談逸話に充ち満ちている。青少年の心は、成長への栄養源としてそれらを求めているのであって、現在の教育はわざわざそれらを青少年の目から隠して、希望を持てなくしているのである。
17歳の少年教師・野間清治が田舎の小学校で、子供たちがわくわくするような物語を語った姿が、希望のある国への出発点だろう。それは日本人一人ひとりが、誰でもどこでも様々な形で出来ることである。
文責:伊勢雅臣
image by: Rei and Motion Studio / Shutterstock.com , Wikimedia Commons