皆さんは部下に何か大変な頼みごとをしたとき、「悪かったね。メシおごるよ!」程度で片付けていませんか? 無料メルマガ『人間をとことん考える(人間論)』の著者で薬剤師の小原一将さんは、「上司が部下に食事をご馳走するのは決して悪いことではない」と前置きした上で、大変な仕事を引き受けてくれた部下への評価や感謝の気持ちをろくに言いもせず、まるで芸をした動物にエサをあげるかのごとく「食事」を利用する上司や会社は考えを改めるべきだ、と厳しく指摘しています。
人間論 「部下にすぐご飯をおごる上司は有能だと思いますか?」
市場主義というものが世の中を席巻し続けている。今の世の中は要するに、数値化できる資本を基準にして成り立っていると言っても過言ではない。
キングダムというマンガで呂不韋という人物が「貨幣制度が天下を作った」と言っていたがまさにその通りだろう。「貨幣」の出現によって裕福の分かりやすい尺度が生まれたのは間違いない。2000年以上も前の中国の話であるが現代に置き換えても全く同じことが言える。
市場原理に物事をまかせることが全て悪いわけではない。国家が統制するよりも買い手と売り手の自由競争に任せることで得られるメリットは大きいだろう。ただ、知らず知らずのうちにこの原理にどっぷりとつかることによって、目に見えないものを感じ取れなくなってしまうように思う。
上司の人にご飯をおごってもらったり、飲み物などを買ってもらった経験はだれにでもあるだろう。それ自体は当然良いことであり、上司の気遣いによって部下のモチベーションの向上が起こりうる。しかしこれを乱用する人間も多い。
例えば何かにつけてご飯に行こうと誘ってくる上司もいる。困りごとを頼むときや仕事でしんどい思いをさせてしまったときに部下をご飯に誘うのだ。相手を気遣うという姿勢に一定の評価をすることはできるが、部下たちが欲しいものは多くの場合それではない。
上司としては仕事に対する負荷を考えてその対価として食事代金を支払うということなのだが、部下の頑張りというものは果たしてこのように資本に代替できるのだろうか? 私の考えでは、会社のために粉骨砕身頑張る従業員にとって一度の食事によって得られるものは多くないように思う。
お分かりだと思うがご飯に行くことが悪いわけではない。ご飯に行くという金銭的負荷のみによって従業員の頑張りに報いたと解釈する上司がいれば間違っていると言いたいのだ。それはもはや芸をしたらエサをもらえる動物と変わらなくなってしまう。
「今回は大変な仕事を引き受けてくれてありがとう。会社も私もとても助かった。一つこれを乗り越えたことで君のスキルアップにもつながったと思う。周りのみんなも褒めていたよ。せっかくなのでそのみんなと一緒に今回の仕事の達成を祝って食事にでも行こうか?」となれば良いのだが、「しんどい仕事をさせて申し訳ない。お詫びに食事をおごるよ」と言う上司が少なからずいる。
しつこいようだが部下の頑張りに豪華な食事をおごるなと言いたいわけではない。私が部下だとしたら、会社や上司、そして周りの仲間のために頑張った努力や結果を金銭的価値だけで片づけてほしくないのだ。そしてもちろん食事のために頑張ったわけでもない。多くの場合、従業員の給料を上げることによって生産性が上がるわけではないということも似たようなことであると考える。
それにも関わらず愚かな行為を繰り返す上司や会社も多い。資本という絶対的な尺度で安易に物事を評価してきたツケがまわってきている。確かにお金がないと何もできない世の中ではあるが、お金では交換できない価値というものは考えている以上にたくさんあるはずだ。
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