共謀罪を可決させたのは「情報発信はメディアがやれ」という空気

 

4月から客員教授として学習障がい者ら向けの法定外の「見晴台学園大学」での「メディアと社会」の講義をしながら、障がいのある学生らが情報を取得するに際して、その選択肢は多様であり、それは無意識のうちに得られやすく、読みやすい情報に向かい、そして受け入れていくという傾向に気づく。

今となってはテレビも新聞も情報伝達媒体の王様ではない。若者の動向を見る限り、もはやゲートキーパー理論(社会の出来事を報じる前にメディアがふるいにかけ、通過したものだけが報じられるという考え方)も死滅したと言えるのかもしれない。

そして、これは評論家の宇野常寛さんの言うところの「リトル・ピープル」の物語の「現在」でもあるのだろう。しかし、リトル・ピープルを統合する物語が見当たらない。物語の書き手・語り手として機能していたはずのメディアの王様は、そのアクセスの大半を折られただけではなく、核であるはずのファクトを描き切れないまま、ビック・ブラザーの時代に生きているような印象さえある。だから、受け手との融合が図れない。

今回の法案は「対テロ対策」という名目ではあるが、政府が描く大きな思想の中に市民はいない。それはメディアも政府も同じように、安全な場所でモノを考えているような気がしてならない。

その事実にメディアは無自覚であるのも問題だ。

1960年代半ばに鶴見俊輔は専門化したマスメディア企業のジャーナリズム以外に、市民のジャーナリズムというものがあるべきで、両者はつながり合うべきとの主張を行っている。

しかし、明治の近代国家建設と共にマスメディアは新聞・テレビを中心に企業ネットワークにより構築化され制度化された一方、市民の入る余地はなかった。結果的に市民の言論活動は停滞したまま現在に至った。

市民にとっても発信はマスメディアがやるものだという意識でいるものだから、「共謀罪」に対する危機意識が薄い。問題点を指摘し考え討議し発信するという行為が他人事だから、仕方がない。言論に誰もが携われる社会であるならば、この法案は上程すらできなかったであろう。

つまり、そんな社会を私たちは作ってきてしまったのである。加えて、メディアリテラシーを構築してこなかったのは、意図的なのかメディアの怠慢なのか。

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