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自殺寸前に起きたある出来事。「奇跡のリンゴ」はこうして生まれた

「奇跡のリンゴ」として、現在その人気ゆえほとんど口にすることができない木村秋則さんが作る無農薬のリンゴ。今でこそ順風満帆ですが、その栽培を成功させるまでには想像を絶するほどの挫折と貧困にあえぐ苦しい日々がありました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では著者の伊勢雅臣さんが、木村さんの成功までの道のりを詳しく紹介しています。

奇跡のリンゴはこうして生まれた

木村秋則さんは、満月の下、リンゴ畑の間の道を通って、黒い影となってそびえる津軽富士こと岩木山に向かって歩いていた。手にはロープを握りしめ、誰にも見つからないところまで登って、そこで首を吊って死のうと思っていた。

長年の労苦で老人のように皺が刻まれた顔は、死を決意した解放感でもとの30代の男の表情を取り戻していた。6年もの間、無農薬でリンゴをつくるという夢にとりつかれて、財産を潰し家族を貧乏のどん底に突き落としてまで頑張ってきたが、ついにその夢は潰えたのだった。

その夢こそが自分の生まれてきた意味と信じていたが、その夢が果たせない以上、生きている意味はない。自分がいなくなれば、家族も今よりは幸せになるだろう。そう思うと、この何年も背負い続けてきた自分には重すぎる荷物を下ろせるという開放感を感じていた。

2時間ほども登って、首を吊るすにはちょうどいい具合の木が見つかった。持ってきたロープを枝に投げると、ロープの端が指をするりと抜けてあらぬ方向に飛んでいった

ロープを拾いに山の斜面を降りかけると、月光のもとに1本のリンゴの木が立っていた。のびのびと枝を伸ばし、そのすべての枝にみっしりと葉を茂らせて、思わず見惚れてしまうほど、美しい木だった。

こんな山奥で、誰も農薬などかけていないはずだ。そうだ、森の木々はそもそも農薬など必要としていない。6年間探してきた答えが目の前にあった

「無農薬でリンゴを育てる」という夢

木村さんが、無農薬でリンゴをつくるという夢にとりつかれたのは、ふとした偶然がきっかけだった。研究熱心な木村さんが、本屋で農業の専門書を見つけた。書棚の最上段にあるので、ちょうどそばにあった棒でその本をつっついた所、隣にあった本も一緒に落ちてきた。

床は雪か雨で濡れていて、汚れた本を仕方なく一緒に買った。『自然農法』というタイトルで「何もやらない農薬も肥料もなにも使わない農業」とコピーがついていた。木村さんは、その本を擦り切れるほど読んだ。

リンゴを育てるには、年に13回も各種の農薬をそれぞれ最適な時期に散布しなければならない。そうしないと、昆虫、カビ、細菌など、多種多様の外敵にやられて、虫食いのない、甘くて大きい、美しいリンゴは育たないのだ。

農薬の残留量は、人体に影響を与えないよう、厳しく決められている。しかし、妻の美千子さんは農薬に過敏な体質で、散布するたびに1週間も寝込んでしまう。

無農薬のリンゴができたら、妻に辛い思いをさせることもなくなるしより安心なリンゴを消費者に届けられる。こうして木村さんは重すぎる夢を背負い込んだのである。

冬のように葉のない寒々とした光景

リンゴ畑での農薬散布をやめてみると害虫が一斉にリンゴの木に襲いかかった。蛾の幼虫が何万匹も枝に集まってきて、葉を食べ尽くしてしまう。虫の重さで、リンゴの枝がしなって垂れ下がるほどだった。

一家4人で毎日、朝から晩まで虫取りをしたが、1本の木からスーパーのビニール袋3杯分の虫がとれた。それでも虫はあとからあとから湧いてくる。さらには病原菌が残った葉を冒した。黄色くしなびた葉が1枚、また1枚と落ちていく。

殺菌作用のある酢やニンニク、焼酎などを片っ端から農薬のかわりに散布してみたが、満足な結果は得られなかった。周囲の畑のリンゴの木々は鬱蒼(うっそう)と葉を茂らせているのに、木村さんの畑だけが冬のように葉のない寒々とした光景をさらしていた。

結局、リンゴはひとつもとれず収入もなかった。あと1年だけ頑張ってみよう。その繰り返しで、2年過ぎ、3年が過ぎた。蓄えは底をつき、自家用車も農作業用のトラックも売り払った。電話代も払えないので、止められてしまった。

3人の娘たちには穴のあいた靴下にツギをあて短くなった鉛筆2本をセロテープでつないで使わせた

「あいつは頭がおかしくなった」

4年目が過ぎ、5年目に入ってもリンゴ畑の状態は悪化するばかりだった。木村さんの友人たちは心配して激しい口調で忠告した。

「無農薬では無理だってことは、もうわかっただろう。いい加減に目をさませ」
「少しは奥さんや、子供たちのことを考えたらどうだ」

しかし、木村さんは頑(かたく)なに首を横に振るだけだった。友人たちは心からの忠告に耳を貸さない木村に腹を立て愛想を尽かして去って行った

あいつは頭がおかしくなった」「バカが感染うつるから近づくな」と陰口を叩かれるようになり、木村さんも人を避けて、道で誰にも出会わないように、夜が明ける前に畑にでかけ、日が暮れてから家路についた。

ただ一つの救いは家族がバラバラになっていなかったことだ。木村さんが「もう諦めた方がいいかな」と珍しく弱音を吐くと、いつもは大人しい長女が色をなして怒った。「そんなの嫌だ。なんのために、私たちはこんなに貧乏しているの?」。いつしか長女は父親の夢を共有していたのである。

6年目になると、リンゴの木々は根っこまで弱ったのだろう。幹を押しただけで、ぐらぐら揺れるようになった。木村さんはリンゴの木を1本づつ回って、こう言いながら、頭を下げてあるいた。

「無理をさせてごめんなさい。花を咲かせなくとも、実をならせなくてもいいから、どうか枯れないでちょうだい」

もう出来ることは無くなって、あとはリンゴの木にお願いするしかなくなっていたのである。この頃から、木村さんはリンゴの声が聞こえるようになった、という。

「そうだ。この土をつくればいい。」

こうして万策尽きた昭和60(1985)年7月31日、木村さんは死を決意して岩木山に登っていった。そして偶然山中の斜面に立つ美しい木を見つけたのである。

走って近づくと、それはドングリの木であることに気がついた。しかし、リンゴの木でもドングリの木でも同じことだった。虫の音は周囲にうるさいほど鳴り響いている。病気の原因となるカビや菌もたくさんあるに違いない。それなのに、なぜこの木は農薬もなしにこんなに葉をつけているのか。

決定的な違いは地面にあることに木村さんは気がついた。雑草が生え放題で、足が沈むほど、ふかふかだった。木村さんは無我夢中で土を掘った。柔らかい土は、素手でいくらでも掘ることができた。

ツンと鼻を刺激する、山の土の匂いがした。思わず、土を口に含んでいたよい匂いが口いっぱいに広がった。「そうだ。この土をつくればいい」。

この土はここに住む生きとし生けるもの、すべての合作なのだ。落ち葉と枯れ草が何年も積み重なり、それを虫や微生物が分解して土ができる。そこに落ちた木の実が、土の深い部分まで根を伸ばしていく。

ここではすべての命が、他の命と関わり合い、支え合って生きていた。その中で生き物は、このドングリの木のように、本来の力で自分の身を守ることができるはずなのだ。そういう自然の強さを失っていたからリンゴの木はあれほどまでに虫や病気に苦しめられたのだ。

今までの自分は、農薬の代わりに、虫や病気を殺してくれる物質を探していただけのことなのだ。自分のなすべきことは、この柔らかい土を畑に再現して本来の自然の力を引き出してやることなのだ。

一心に土にまみれる木村さんの姿を、中天の満月が皓々(こうこう)と照らしていた。

8年目にとれたリンゴ

翌年は、春から大豆を播いた。大豆は腰の高さにまで育ち、リンゴ畑がジャングルのようになった。草刈りも一切やめてしまったから、大豆の下には様々な種類の雑草が生えた。その草陰で鳴く虫を蛙が追い、蛙を狙って蛇が姿を見せる。野ネズミや野ウサギまでが走り回っていた。

木村さんの畑は、急に賑やかになった。リンゴの病気も害虫も相変わらず猛威を振るっていたが、リンゴの木は少しだけ元気になった。木村さんはこう気づいた。

農薬を使っていると、リンゴの木が病気や虫と戦う力を衰えさせてしまうのさ。楽するからいけないんだと思う。クルマにばかり乗っていると、足腰が弱くなるでしょう。同じことが起きるわけ。
(『奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録』石川拓治・著/幻冬舎)

翌年の春先には、新しい枝が10センチほど伸びていた。何年も生長を止めていたリンゴの木が、ふたたび生長を始めたのだ。

無農薬を始めたときには、800本あったリンゴの木の半分近くが枯れていたが、残る400本余りのリンゴの木のうちの1本だけが7つの花を咲かせた

自分の畑でリンゴの花が咲くのを見るのは、ほんとうに久しぶりだった。農薬の使用をやめてから8年目、ドングリの木から得たヒントで大豆を播くようになってから3年目であった。

その7つの花のうち、二つが実をつけた。収穫できたリンゴはたった二つだった。そのリンゴを神棚にあげ、それから家族全員で食べた。

驚くほどおいしかった。リンゴ農家だから、物心つく前からリンゴを食べ続けてきたけれど、こんなにおいしいリンゴを食べたのは初めてだと思った。

9年ぶりの涙の花見

翌年の春、その光景を最初に見たのは、隣のリンゴ畑の持ち主竹屋銀三さんだった。「あいつとうとうやりやがった」と思わず、声をあげた。竹屋さんはお祝いを言いたくて、木村さんを探したが、見当たらない。

方々探し回って、人に借りた田で農作業をしていた木村さんを見つけた。「岩木山のお前のリンゴ畑に花咲いたぞ。行ってみろじゃ」

木村さんはオンボロ・バイクの後ろに奥さんを乗せ、畑に向かった。隣の畑の農具小屋に辿り着くと、その陰からそっと首を伸ばした。

畑一面に白いリンゴの花が咲いていた。言葉を失って、二人はその場に立ち尽くしていた。二人の目には涙が浮かんでいた。9年ぶりのリンゴの花見は涙に濡れていた

その日は、何度も花を見に行った。夕方にはお祝いをしようと、お酒を持っていき、リンゴの木の1本1本の根元に、少しずつかけて回った。「ありがとうよく花を咲かせてくれた」と。木村さんは言う。

みんなは、木村はよく頑張って言うけどさ、私じゃない。リンゴの木が頑張ったんだよ。…だってさ、人間はどんなに頑張っても自分ではリンゴの花のひとつも咲かせることが出来ないんだよ。…

 

それがわからなかったんだよ。自分がリンゴを作っていると思い込んでいたの。自分がリンゴの木を管理しているんだとな。私に出来ることは、リンゴの木の手伝いでしかないんだよ。失敗に失敗を積み重ねて、ようやくそのことがわかった。それがわかるまで、ほんとうに長い時間がかかったな。
(同上)

奇跡のリンゴ

しかしゴールはまだまだ先だった。その年の秋にとれたリンゴはピンポン球ほどの大きさだった。そこから通常の大きさのリンゴがとれるようになるまで、さらに数年を要した。

木村さんのリンゴは今でもそれほど大きい訳ではないし、形が歪んだり、小さな傷もある。しかし、そのリンゴを一口かじった途端にあまりのおいしさに涙が出そうになるという。

二つに切って2年間、保存しておいても、普通のリンゴのように変色して腐ることなく、小さくしぼみながらも、赤い色をほのかに残したまま、お菓子のように甘い香りを放っている。まさに「奇跡のリンゴ」である。

平成3(1991)年の秋に、台風が直撃して、青森県の大半のリンゴが落花しただけでなく、リンゴの木そのものが風で倒れるという被害が起こった。

ところが、木村さんの畑ではリンゴの木は揺るぎもせず、8割以上の果実が枝に残っていた。通常の木の根の長さは、せいぜい数メートルというところだが、木村さんの畑では20メートル以上も伸びていた。それほどに長い根から吸収する養分が、害虫や病気を跳ね返す力になっていのだろう。

生きとし生けるものの間で、リンゴの木の本来の生命力を引き出した木村さんの農法は、日本古来からの自然観に立脚したものだ。それは環境破壊と食糧危機に脅かされている人類への重要な示唆を含んでいる。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock.com

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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