「叱る」という行為は、相手が変わろうとしていなければ無意味だ

 

もう一つの理由は、叱ることがその人にとって必ずしも良いことであるとは限らないからだ。その人の立場にたち、その人のことを思って注意をするという行為は必要なことなのだが、それは相手が何かしら自分を良くしよう自分を変えていこうと思っている時に成立する。

つまり、現状維持で良いと思っていたり変わりたくないと思っている人に、いくら注意をして行動の変容を求めてもしょうがないのだ。「議論」とは自分の考えが変わる可能性がある人としか成り立たないのと同じで、叱るという行為も相手が変わろうとしていない限り両者にとって意味のないものになる。

後者の方の考え方が良いのか悪いのかはまだ分からない。変わる可能性を信じて根気よく接することも良いかもしれない。しかしそもそも人を変えるということ自体が驕りであって、進んで行うべきことではないかもしれない。この点はまだ自分の中で適切な解答が見当たらない。

このような考えがあり、簡単には怒ったり叱ったりしなくなった。悪いことではないのだろうが、良いことでもないように思っている。例えば自分が組織のリーダーであり大きな責任を担っているのなら叱ることは必須であるだろう。逆にその組織に関係のない人がいくら叱っても効果がない可能性が高い。

叱る対象が自分にとって大事な人かどうかによっても変わるかもしれない。私は人が失礼な対応をしてきても、自分の中でその人の評価を下げるだけなので叱らないことが多い。こう考えるとケースバイケースであり、一概に自分の中で叱るかどうかのボーダーラインを作ることは難しい

子どもの頃、親にたくさん叱られたがそのおかげで今があると思っている。叱られたことのある学校の先生や、先輩は今でも印象に残っており尊敬している。そのため叱ることは非常に重要だとは思うのだが、その有用性は叱られる側にも大きく依存するのではないかと思っている。

image by: Shutterstock.com

小原一将この著者の記事一覧

■医師を目指して二浪したが実力不足のために薬学部へ。しかし、薬学には全く魅力を感じられなかった。哲学や心理学などの本を読み漁り、サークル活動やフリーペーパー作成など大学生活を薬学以外に費やした。 ■薬剤師資格を持たないまま卒業し、臨床心理士を養成する大学院へ進学。しかし、臨床心理学の現状に落胆。 ■薬学の勉強をし直して薬剤師資格を取得。薬局に勤務し今に至る。 人間とは何を考え、どのように行動するべきなのかを大学生活の4年間で考え抜いた。友情や恋愛、道徳や倫理などジャンルにとらわれないものを提供する。

無料メルマガ好評配信中

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 人間をとことん考える(人間論) 』

【著者】 小原一将 【発行周期】 毎月1,11,21,日

print
いま読まれてます

  • 「叱る」という行為は、相手が変わろうとしていなければ無意味だ
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け