中国は破壊し、日本は共生を選んだ。日本人が台湾に残した鉄道秘話

 

そもそも阿里山森林の発見は明治29年11月13日でした。竹山撫墾署長斉藤音作本多静六林学博士が率いる27人の新高山(モーリス山)登山隊が、東埔から八通関ルートを通って登頂する途中に、本多博士は台湾紅檜の標本を採取しました。

それを東京に送り、東京帝大松村任三教授に研究してもらった結果、明治34年に新種として認定され、「台湾紅檜」と命名されたのです。その後石田常平が阿里山原住民の引率で、広大な阿里山の檜木大森林を発見しました。これに驚いた総督府は、翌年から石田に加え小西成幸小笠原冨二郎小池三九郎の4名を調査に出したのです。

さらに明治35年、河合鈰太郎の実地調査を委託し、阿里山開発の計画を作成したことから、樹高36メートル超、幹周り18メートルにも及ぶ長大材が出ることが分かったのでした。

具体的には、海抜2,000メートル以下は暖帯林で、それ以上は紅檜、2,300メートルは扁柏と紅檜の純林、2,700メートルには栂、高根五葉が混じったような状況で原生していました。

前述の、小笠原冨二郎が発見した阿里山神木は、樹高50余メートル、地面部樹幹34メートル、直径6.6メートルを超える推定樹齢3,000年の巨木でした。

総督府は約160平方キロメートルの檜の大森林を入念に調査・計算しました。その結果、檜の巨木のなかには台湾紅檜15万5,783本、台湾扁柏15万2,482本もあると判明。以来、阿里山森林の巨木伐採が始まったのです。

阿里山鉄道は、その木材運搬のために建設されたものでした。はじめ藤田組が林業調査と鉄道敷設の計画起工を請け負いましたが、明治41年1月、工事半ばにして中止となり、その後の事業は総督府に継承されました。そしてついに、大正41915)、総督府の手によって本線の開通となったのです。

明治39年~45年の6年をかけて、河合を中心に鉄砲水や資金難の困難を克服しながら、全長72キロ、高度差2,160メートルに及ぶ日本初の山岳(登山)鉄道をみごと完成させたのでした。これは当時としては、世界三大登山鉄道のひとつとして話題となったほどの大事業でした。

河合はその後、台湾北部の太平山や満蒙の森林開発事業にも携わりました。昭和元(1926)年に東京帝大退官後は、木炭研究で煉炭を発明し、その健在ぶりをアピール。昭和6年に逝去した際には、訃報が阿里山鉄道起点の大都市嘉義にも伝わり、官民あげての盛大な追悼式が行われたほどでした。その3年後、河合の功績を讚え、阿里山寺(現在の慈雲寺)境内に「琴山河合博士旌功碑が建てられました

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