ここ最近、任天堂の業績が絶好調です。その理由は、以前同社の社長をつとめていた人物が深く関係しています。「日本人だけが知らない天才、任天堂・岩田聡社長の功績」という記事で詳しく紹介した、任天堂の元社長である故・岩田聡(さとる)氏。惜しくも2015年7月11日に胆管腫瘍のため55歳の若さで亡くなりましたが、岩田社長が情熱をかけた「想い」は今、世界中で花開いているようです。NY在住で『メルマガ「ニューヨークの遊び方」』の著者・りばてぃさんが、その数々の功績を振り返ります。
岩田さんの想いが導いた成功
誰かへの想い。
本当に強い想いは、その人が去ったあとでも残る。
誰かの想いに応えようとしたとき人間は自分が持っている能力以上の力を発揮できるのかもしれない。
そんなことを思わせる出来事があった。
ブログのほうでも取り上げたが今、任天堂が絶好調だ。
3月3日に発売した家庭用ゲーム機「ニンテンドースイッチ」が爆発的な売れ行き。
アメリカでは、発売から2日間で任天堂アメリカ史上最も売れた端末となった。
またこのスイッチ用ソフトとして『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(The Legend of Zelda:Breath of the Wild)も絶好調!
スタンドアローン・ローンチタイトルとしては米任天堂史上最高となる売上を叩き出し超スーパー大ヒットとなった。
(ご参考)
● ただ今、絶好調の任天堂のニューヨークの直営店「任天堂ワールド」Nintendo World
別記事でも画像付きで詳しく取り上げたが、任天堂元社長の故岩田聡(いわたさとる)さんがその新作ゼルダに出てくるのだ。
ゲーム内の平原外れの馬宿に岩田さんそっくりのキャラがいる。
髪型、メガネ、容姿など、どう見ても岩田さんのようなキャラクターのBotrickは、”山のヌシ”がサトリ山(Satori Mountain)に現れると教えてくれるそうだ。
岩田さんは、この新作ゼルダの開発中の2015年7月11日、胆管腫瘍のため55歳という若さで、突然、亡くなられた。
このときのことについて、今年3月8日に掲載された雑誌ニューヨーカーのインタビューに対して、任天堂の代表取締役である宮本茂さんはこう語っている。
「ものすごく深い悲しみに包まれたのですが、不思議なことに、なぜか、皆、岩田さんがすぐそこで見ているような感覚がして、それがモチベーションになってゼルダをより良い作品に仕上げていくことができた」
(原文)
”The sadness runs deep. This is approaching spiritual talk, but we had the sense that he was watching over our work. That became a source of motivation, a drive for us to improve and be better.”
岩田さんが残した想いを背負って懸命に頑張った任天堂の皆さんからクリエイターとしての気概を感じずにはいられないエピソードだと思う。
(ご参考)
● 新作「ゼルダの伝説」に岩田さん!?で米国のゲーマーに感動の嵐
せっかくの機会なので岩田さんについてご説明しよう。
岩田さんは任天堂の創業者一族以外から初めて抜擢された任天堂4代目の社長。
日本国内ではあまり知られてないようだが、世界中のゲーム・ファンやゲーム業界関係者、社外の方々と社長自ら積極的に交流を深め、家庭向けゲームの文化を大きく発展させた人物としても有名だ。
例えば、岩田さん自らが登場して任天堂の製品を“直接!”英語で解説する広報動画、「ニンテンドーダイレクト」(Nintendo Direct)や、開発スタッフへのインタビューをこれまた岩田さん自ら行う「社長が訊く」(Iwata Asks、こちらも日本語でなく英語)シリーズなどにより、世界中のゲームファンと心の通じ合った交流を深めていた。
(ご参考)
● Nintendo Direct
そんなわけで、海外での岩田さんへの評価は高く、急逝された当時岩田さんの死への悲しみの声や、感謝のお礼などなど様々な追悼メッセージが、#satoruiwataや#ThankYouIwataなどのハッシュタグで大量投稿。
例えば、
「子どもの頃のボクに、イマジネーションとクリエイティビティの素晴らしさを教えてくれたのはNintendoだった。」
「エンターテインメントとインスピレーションの年月をありがとう」
「もし岩田さんがいなかったら今の自分は存在するはずもない」
などのようなメッセージだ。
また、ニューヨークにある任天堂の直営店の任天堂ワールド・ストア(Nintendo World Store)では、ファンからの慰霊や追悼メッセージを受け付けるコーナーを用意したところ行列ができるほどの人たちが集まったそうだ。
〔ご参考〕
● ただ今、世界中で任天堂岩田社長への感動的な追悼投稿が大量発生中 #satoruiwata #ThankYouIwata
でも単に、これまでの社長がやってこなかったようなことをしたから皆に愛されたわけじゃない。
岩田さんは、ゲーム界においても企業運営者としても偉業が多くとにかくレジェンドと呼ぶに相応しいのだ。
もう少し岩田さんのご経歴について振り返っておこう。
岩田聡(いわた さとる)さんは、1959年12月6日生まれ。北海道札幌市出身。
岩田さんのお父さんの岩田弘志さんは、1979年(岩田社長がまだ20歳の頃)から1995年まで4期に渡って室蘭市長となる。その後、北海道庁商工観光部の部長なども歴任され、勲三等瑞宝章も受賞された優秀な政治家だった。
岩田さんのお父さんが市長になった当時の室蘭市は、60億円もの不良債務を抱え財政再建団体へ転落寸前だったが行財政改革を実施し、見事、財政健全化に成功した。
鉄工業市として室蘭を有名にしたのも、お父さんの功績と言われている。そのお父さんは、2008年、83歳で亡くなられた。
そんなお父さんを持つ岩田さんは、1976年、高校生時代(札幌南高等学校)、ヒューレット・パッカード社の電子計算機『HP-65』の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と親の援助でこれを購入。
独学でプログラミングをマスターしゲームを開発。ヒューレット・パッカード社に送ったところ、あまりの完成度から「札幌にとんでもない高校生がいる」と評判になり、機材などをプレゼントされたそうだ。
高校卒業後は東京工業大学に進学。
専攻は工学部情報工学科。
大学1年時の1979年、入学祝いに加えローンを組んでマイコン(1977年にコモドール社が発売した世界初のホーム/パーソナルコンピュータ『PET 2001』、当時はパソコンではなくマイコンと呼んでいた) を購入。
この『PET 2001』で、後のプログラマー人生の下地となる本格的なプログラミングを学びはじめる。
大学在学中、西武百貨店池袋本店のマイコンコーナーの常連客だった岩田さんは、そのマイコンコーナーの店員らが、1980年に立ち上げた「株式会社HAL研究所」(通称ハル研)にアルバイトとして参加。
社名の「HAL」は、当時最大のコンピュータ企業だった「IBM」のアルファベットを1文字ずつ前にずらしたもので、「IBMの一歩先を行く」という意味から名付けられたもの。
ハル研でプログラミングに熱中した岩田さんは、大学卒業後、そのままプログラマーとしてハル研に就職。
この頃のハル研は、社員たった5名の零細ベンチャー企業で、岩田さんはプログラミングの他、デザイン、販売、スタジオの掃除まで何でもやっていたという。
また、東工大まで出たのに、なんだかよく分からない零細ベンチャー企業に就職した息子さんに対して、当時、室蘭市長だった岩田さんのお父さんは猛烈に反対。入社から半年はまったく口をきかなかったそうだ。
ところで、岩田さんが大学に入学し、ハル研に就職するまでの間、昭和58年(1983年)7月15日に、任天堂から、あのファミリー・コンピューターの初号機が発売されているが、岩田さんは、ファミコン史の初期段階から、任天堂に顔を出し、ファミコン向けゲームのプログラムをハル研で担当することになった。
しかも、このとき岩田さんが作ったのは、『ピンボール』、『ゴルフ』、『バルーンファイト』など、今でも語り継がれる初期ファミコンの超名作ゲームばかり。
中でも、特に『バルーンファイト』は、ゲームセンターにあるアーケード版よりも非常に滑らかな動きを実現し、アーケード版のプログラマが感心して岩田さんの元へレクチャーを求めて訪れたり、それが『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされた等というエピソードも残っている。
要するに、岩田さんは、プロのプログラマーになったばかりの初期段階から天才的な才能を発揮していた人だったのだ。
その後もハル研と任天堂の共同事業は継続。
1992年、ハル研の経営が多額の負債から行き詰ると、当時の任天堂社長だった山内溥さんは、岩田さんをハル研の社長に抜擢することを条件に、経営建て直しを支援した。
この社長抜擢の前まで岩田さんは、経営とは直接関係のない開発部長(プログラム開発の最終責任者)だったが、その後、山内さんの予想通り、社長として高い経営手腕を発揮している(15億円の負債をわずか6年で完済)。
自ら率先してPRやプロモーション活動を行っていたが、社長になってからも、時々プログラミングにも参加し、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』などのヒット作シリーズを送り出し経営再建を成功させた。
『大乱闘スマッシュブラザーズ』の第1作のプレゼンテーション用プロトタイプを作り上げたのも岩田さんである。
さらに、当時の岩田さんの天才プログラマーぶりを伝える数々の逸話の中でも、特に有名なものには、開発中止寸前の状態に陥っていた『MOTHER2』(1994年発売)に参加した際、スタッフ達に対し、
「このまま、今あるものを使って完成させるなら2年かかります。しかし、私に1から作らせてくれるというのなら、1年で完成させます。どちらにします?」
と提案し、全てのプログラムを組み直し、言葉通り1年で完成させたというものも。
このときの縁から、『MOTHER』シリーズのディレクターだった糸井重里さんとはその後長年に渡って親交を深めることになり、1998年、「ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げにも参加し、『電脳部長』という肩書きも持っていた。
糸井さんによると、「糸井重里事務所内に置かれている、パソコンの設置・設定。電源コードやLAN ケーブルの配線に至るまで全部、電脳部長がやってくれた」という。
2000年、ハル研での経営手腕を、当時の任天堂社長だった山内さんに高く評価され、任天堂に入社。取締役経営企画室長に就任した。
そして2002年、山内さんから後継者として指名を受け、入社後わずか2年の42歳という異例の若さで、任天堂の4代目社長に就任したのである。
任天堂の社長に就任した岩田さんは、それまでなかった新しいゲーム機やゲームソフトの可能性について、様々なアイデアを考え、実際に具現化していった。
それは例えば、2004年に発売したタッチパネルを含めた2画面という斬新なコンセプトの携帯ゲーム機、ニンテンドーDSであったり、そのゲームソフトの、
「脳を鍛える大人のDSトレーニング」
「おいでよ どうぶつの森」
「ニンテンドッグス」
等など、それまで無かった新しいジャンルのゲームを続々と生み出ししかも、それらは世界中で売れミリオンセラーとなった。
さらに、2006年には、それまで無かった概念の手に持つコントローラーで任天堂の歴史に残る爆発的な売上を記録したWiiをリリース。
Wiiの売上は全世界で累計1億台を突破した。
なお、岩田さんが社長になった2002~2008年までの初期の7年間に、任天堂は売上が約3倍、営業利益も1,191億円から4,872億円へと約4倍に大きく成長し、岩田さんの経営手腕は評価されることとなった。
そんなわけで、岩田さんは引き続きそれまでなかった新しいゲーム機やゲームソフトの可能性について、益々様々なアイデアを実行していった。
例えば、2011年にニンテンドー3DS、2012年にWiiUといった感じだ。
こうした流れが、現在、世界中で記録的な大ヒットとなっている「ニンテンドースイッチ」やゼルダの新作に確実に繋がっていると思う。
冒頭でご案内したとおり、岩田さんは、2015年7月11日、胆管腫瘍のため京都市内の病院で逝去されたが、岩田さんの想いがそれで消えてなくなったわけじゃない。
むしろ、岩田さんの想いは、その想いに応えようとする岩田さんを支えてきた人々によって、以前にも増した輝きを放つのかもしれない。
誰かへの想い。
本当に強い想いは、その人が去ったあとでも残る。
誰かの想いに応えようとしたとき人間は自分が持っている能力以上の力を発揮できるのかもしれない。
ある意味、これは『信頼』に応えることでもあるのだろう。