もしも光も音もない世界で生きることになったら…。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、目も見えず耳も聞こえない「盲ろう者」となり絶望の淵に叩き落とされながらも、ある重要な人間の「価値」を見出し、現在は東大教授として教鞭をとる福島智(さとし)氏を紹介しています。
光も音もない世界で生きる意味を問う
月刊誌『致知』を読んでいて「へぇー、こんな人がいるのか」と驚かされた。盲ろう者(もうろうしゃ)、すなわち目も見えず耳も聞こえないながら、東大教授をされているという福島智(さとし)氏である。
記事は『水滸伝』(全19巻)などで有名な作家の北方謙三氏との対談。耳の聞こえない福島さんは、自ら考案した指点字という方法を使う通訳者に入ってもらい、他者と会話をしている。通訳者が福島さんと両手の人さし指と中指、薬指を重ねて、点字のタイプライターのキーに見立てて指を叩いて伝えるのである。この対談もそんな風に行われたのだろう。
対談の中で、福島さんはこんな風に語っている。
私が北方先生の作品に強く惹かれるのは…登場人物が、男にしろ、女にしろ、筋を通して生きているということ。その筋というのも、他人から見るとつまらないと思われるようなものかもしれないけれども、それに懸けて生きるということ。そういった生き方がすごく私の心に突き刺さってきたし、私はそうありたいという願望にヒットしたんです。
(対談『運命を切りひらく』福島智、北方謙三/「致知」)
その一例として、福島さんは北方作品の中から、こんなシーンを挙げている。
先生のブラディ・ドール・シリーズに、遠山という画家が出てきますよね。彼は初老の男で、肉体的な力はあまりないけれども、一人の女性を守ろうとして、殴られても殴られてもフラフラになりながらも立ち続ける。
これなんかは、私の心の内の願望を見事に描いていただくようなシーンで、この男のようにありたいと強く思いましたね。自分の人生においても、とにかく立ち続けたいと。
(同上)
極限状態の意味は?
ちょうど、福島さんの最新著『ぼくの命は言葉とともにある』が出て、アマゾンでも高い評価を得ていたので、早速、読んでみた。それによると福島さんの障害は幼児の頃から徐々に進んだという。
原因不明の病気によって右目を失明したのが3歳のときです。まだ幼く実感はほとんどありませんでしたが、9歳で左目も見えなくなったときは、さすがに、「ぼくはどうやら、周りのみんなとは違う世界で生きることになったなあ」と思ったものです。
しかし、もともと私は楽天的で切り替えも早かったので、視力を失っても音の世界がある、耳を使って外界とつながることができる、と考えていました。そして実際、音楽やスポーツ、落語などに夢中になって過ごしました。
ところが、その音自体もだんだん怪しくなってきて、14歳の頃に右耳がほとんど聞こえなくなり、18歳のときには残された左耳も聞こえなくなってしまったのです。
(『ぼくの命は言葉とともにある』福島智 著/致知出版社)
光と音を奪われ、暗黒と沈黙の宇宙にただ一人漂っているような状態で、不安と恐怖に包まれた日々を過ごした。家族との会話も難しく、ラジオもテレビも聞こえないなかで、ひたすら点字の本を読み、点字で日記や手紙を書いて、自分が直面している極限状態の意味について考える日々が続いた。
「ぼくは豚とは違うんや」
やがて、この状況にも意味があるのではないか、と考えるようになった。当時、友人に書き送った手記に、こう書いた。
この苦渋の日々が俺の人生の中で何か意義がある時間であり、俺の未来を光らせるための土台として、神があえて与えたもうたものであることを信じよう。信仰なき今の俺にとってできることは、ただそれだけだ。
俺にもし使命というものが、生きるうえでの使命というものがあるとすれば、それは果たさねばならない。
そしてそれをなすことが必要ならば、この苦しみのときをくぐらねばならぬだろう。
(対談『運命を切りひらく』福島智、北方謙三/「致知」)
高校3年の頃、大学に進学しようと思った。父親は「無理して大学なんか行かんでもええ。好きなことしてのんびり暮らせばええやないか。これまでおまえはもう十分苦労した。おまえ一人ぐらいなんとでもなる」と反対した。福島さんは反発した。
ぼくにも生きがいがほしいんや。安楽に暮らすだけではいやや。ぼくは豚とは違うんや。
(同上)
「自分の人生においても、とにかく立ち続けたい」とは、こういう姿勢だった。
昭和58(1983)年の春、福島さんは東京都立大学(現・首都大学東京)の人文学部に20歳で入学した。盲ろう者としては日本で初めての大学進学だった。指点字で他者の発言や周囲の状況を伝えてくれる通訳・介護のボランティアの人々に支えられながら、大学に通った。
「態度価値」
大学で、福島さんが自分の使命を探求する過程で出会ったのが、オーストリアの精神医学者ヴィクトール・E・フランクルの「態度価値」という考え方だった。
フランクルは人が生きるうえで実現する価値には3つの段階がある、という。第一は、美しい絵を描いたり、立派な仕事を通じて「世界」に何かを与える「創造価値」。第二はそういう美しい絵や立派な仕事に感動する「体験価値」。
第三の「態度価値」は、フランクルがナチスのアウシュビッツ強制収容所に囚われていたという極限状態で発見したものだろう。
強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。
(『ぼくの命は言葉とともにある』福島智 著/致知出版社)
アウシュビッツのような極限状態でも、人間は崇高な態度をとりうる。その態度によって実現される価値を「態度価値」と呼んだ。
福島さんが暗黒の宇宙空間に漂うような孤独の中でも、「ぼくは豚とは違うんや」と言って、親に養って貰うだけの安楽な生活を拒否し、大学に行って自分の使命を探そうとした生き方も立派な態度価値である。
盲ろう者として初めて大学に行き、東大教授までなったという実績は、多くの人々を感動させた創造価値だが、それとは別に福島さんの生き方自体に態度価値があるのである。
小野田寛雄の態度価値
フランクルと同様の極限状態で生きた人として、福島さんは小野田寛雄(おのだひろお)氏を挙げている。
戦争が終わって29年後にフィリピンのルバング島にあるジャングルで見つかった小野田寛雄さんは、その29年間の間、「孤独感は一度も感じたことがない」と語った上で、その理由として次のような趣旨のことをおっしゃったそうです。「今まで生かされてきた中で多くの人から教えをいただき、この身体をいただいて自分は成り立っているのだから、自分は一人ではない」と。
これもフランクルの体験と一種響き合うものがあります。たぶん小野田さんの中には「日本のために戦う」という強い意識があり、また陸軍中野学校卒の情報将校として自分に授けられた使命があったから、自らの生には意味があるという気持ちを持っておられたのでしょう。
(対談『運命を切りひらく』福島智、北方謙三/「致知」)
小野田少尉は「ゲリラ戦を指揮せよ」との命令を29年間守って、日本の敗戦後も米軍やフィリピン警察軍と戦った。
小野田さんが投降したのは、上官だった谷口義美・元少佐がやってきて「投降命令」を伝えた時だった。投降した小野田さんをマルコス大統領は肩を抱いて「あなたは立派な軍人だ」と称賛し、過去の行為の全てを赦した。
小野田さんはジャングルの中でただ一人生き残るという極限状況の中でも、軍人として使命を尽くした。その生き方は態度価値そのものである。
「生涯忘れない」と語った米軍女性パイロット
この態度価値を発揮しうるのは、小野田さんのような特別な人ばかりではない。作家の百田尚樹氏は知人から次のような東日本大震災時のエピソードを聞いたという。
…これは知人から聞いた話ですが、救援物資をヘリコプターで被災地に届けた米軍の女性パイロットは、着地が非常に恐ろしかったというのです。なぜなら、どこの国でもヘリコプターに人がワーっと殺到して大混乱が起き、奪い合いになって身の危険を感じることがよくあったからです。
日本の被災地でもそうなると覚悟して着地したのですが、近づいてきたのは代表者である初老の紳士一人、そして丁寧に謝意を述べ、バケツリレーのように搬入していいでしょうか、と許可を取って整列し、搬入が始まった。
すると途中で、「もうこれでけっこうです」とその紳士は言ったそうです。「なぜですか?」と訊ねると、「私たちはもう十分です。同じように被災されている方々が待つ他の避難所に届けてあげてください」と言った。
そのパイロットは、礼儀を重んじ、利他の精神で行動する日本人の姿に感動し、生涯忘れないと知人に語ったそうです。
アウシュビッツ強制収容所で「なけなしのパンを譲っていた人びと」と同じである。そんな態度価値を、いざという場合には普通に発揮できる人々がそこいらにゴロゴロしているというのが、我が国の特殊な国民性である。
他者を驚かせるような創造価値を発揮することは、よほど才能に恵まれた人でなければ難しいが、態度価値なら米軍女性パイロットに生涯の感動を与えた被災者たちのように、我々凡人にも可能なのである。
幸福だった我が先人たち
国家レベルで考えれば、近代の創造価値のトップランナーは英国だった。産業革命で近代工業を生み出し、7つの海を支配する大帝国を築き上げた。
創造価値の次元では、江戸時代の日本はとうてい英国にかなう存在ではなかった。しかし、その英国から明治初年の日本を訪れた人々は、当時の日本人の暮らしぶりに目を見張ったのである。
たとえば、明治11(1878)年に来日したイギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、こんな旅行記を残している。
私達は三等車で旅行した。「平民」のふるまいをぜひ見てみたかったからである。客車の仕切りは肩の高さしかなくて、たちまち最も貧しい日本人で一杯になった。
3時間の旅であったが、他人や私達に対する人びとの礼儀正しい態度、そしてすべてのふるまいに私はただただ感心するばかりだった。それは美しいものであった。とても礼儀正しくてしかも親切。
…老人や盲人に対する日本人の気配りもこの旅で見聞した。私達の最も良いマナーも日本人のマナーの気品、親切さには及ばない。
(『世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰』波田野毅 著/ごま書房)
英国公使ヒュー・フレーザーの妻メアリは明治23(1890)年の鎌倉の海岸で見た光景をこう描写している。
美しい眺めです。—-青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。…
さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。
(『逝きし世の面影』渡辺京二 著/平凡社)
我が先人たちの叡知
ほんの百数十年前の我が先人たちの姿である。当時の日本人は貧しくとも、互いに礼儀正しく思いやりをもって暮らしていた。そういう生き方が幸せへの道であるという叡知を我が先人たちは持っていた。
福島さんは視覚も聴覚も失って、ラジオも聞けず、テレビも見られない、真っ暗な静寂の宇宙空間のような中で、一筋に人間の生きる意味を問い詰めていった。その果てに見えてきたのは、創造価値のみに重きを置く近代文明に覆い隠されていた人間の真に生きる意味だった。
そして、福島さんの見つけた態度価値に重きを置いた生き方を、近代西洋文明に染まる以前の我が先人たちはそのまま実践して、幸福な社会を築いていたのである。
文責:伊勢雅臣
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