北朝鮮や中東など、世界は日々「すぐそこにある戦争の危機」に脅かされています。では、そもそも「戦争をしやすい国」というものは存在するのでしょうか? メルマガ『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』の著者で、世界の情勢や政治問題に詳しいジャーナリストの宇田川さんは、戦争をしやすい国の特徴を5つ挙げ、北朝鮮が戦争を始める可能性について検証しています。
戦争をしやすい国とは?
戦争をしやすい国というのはどのような国なのでしょうか。
これには五つの特色があります。
それは「独裁国家」「軍事国家」「構造的暴力」「民族主義」「戦争コストの低下要因」の五つの要素のうち多くがそろっているということです。
先んじ第一に「独裁国家」ということに関して考えてみましょう。
通常、政府というのは国民の意思によって成立しています。
それは民主主義の場合だけということを言う人がいますが、それは必ずしもそうではありません。
例えば、宗教中心の国家の場合や、あまりあり得ないとは思いますが原始共産主義で国家などはあまり関係ないというような人々の場合は、民主主義ではなくても国民の同意が取れている場合があります。
基本的に、君主が素晴らしければ、国民は毎日の生活を中心に考えるので、そこまで政治に口を出すことはしません。
基本的に、自分の生活が不自由であったり、あるいは自分よりも劣っている人がでかい顔をしていたり、あるいは、何等か自分の力ではどうにもならない、あきらめのつかない悲しい事項が起きた時に、政治に対して不満が出るのです。
ですから、古代のポリス国家など、神が人を納めていると思う人々は、その神の啓示者が納めることに、投票などではなく暗黙の了解があったということになるのではないでしょうか。
まあ、そのような「特殊な例」は別にして、少なくとも近代国家において、民主主義以外の独裁国家というのは戦争に傾く可能性が高くなります。
基本的に、その為政者の選ばれ方が神からの啓示やご神託であるか民主主義による投票であるかは別にして、いずれにせよ、その政治の内容には国民の同意が必要になります。
つまり、政治家の選択ではなく、政治家の政治の運営そのものにおいて、国民の同意が必要であるということになります。
基本的に政治権力というのは、国民に義務と権利を与えるものです。
権利は良いですが、権利だけを与えるということはありません。
基本的人権があるという反論をする人とがいますが、基本的にその「基本的人権を保障する国家という存在を肯定・その存在を守る義務」が存在するのです。
例えば、現在日本に基本的人権がありますが、北朝鮮がいきなり日本を占領して日本という国家が無くなった場合、我々日本国民の基本的人権は守られるでしょうか。
ある意味で当然のことなのですが、現在の北朝鮮の人々と同じ生活を余儀なくされることになりますね。
要するに「基本的人権」というのは「人間が固有に持っている」のではなく「固有に持っている」として国家や政府が保証しているものであるということを認識すべきです。
そのうえで、その国家や政府を守るという義務、もちろん軍事的なものばかりではなく、税金を払うなどのことも含めて、その義務を行わなければ基本的人権は保障されないということになります。
このように「政府」というものは、それが独裁であるか否かにかかわらず「権利」も与えてくれるけれども「義務」も与えるということになります。
その国民の義務に関して言えば、それを国民が納得するかということが重要になります。
この義務に対して納得するということが最も重要な内容であり、その義務を行うことが重要ということになります。
もちろん、義務を喜んで受け入れるという人は少ないです。
現在の日本であっても、税金を払いたくない人は少なくないのと同じでしょう。
しかし、ある程度合理性と必要性が認められれば、感情では認められなくても、理論的には考えることができるようになります。
基本的には「納得する」というレベルの行動になります。
さて、これに対してこの「義務を行わない」人に対しては国家や政府は権力をもって強制させることになります。
その「強制」をするということは、その強制力を行使する対象の国民の意思に反するということになります。
これが国民の多数になれば反乱がおきますし、そうでなければ、犯罪者の拘束ということになります。
この「反乱」が起きないようにするためには、強制力を強くしなければならなくなります。
これが極限まで強くなった状態が「弾圧」になります。
要するに「国民の同意」の無い政府は不安定になり、その同意を強制するためには政府が「強制力を強める」ということになります。
これは、国民の同意を得なければならないという政治の大前提が無くなってしまうということになります。
そうなれば国内の政治が矛盾するということになります。
この国内政治の矛盾の時に「排外主義」ということが出てくるのです。
「排外主義」とは、国内の矛盾を海外など国内の政治以外のところに目を向けさせて、その上で「外国が悪いから今は我慢するしかない」ということを言い、国民の我慢を強いるという政治手法のことです。
つまり、国内の矛盾を海外に排出するということで、「排外主義」と呼ばれます。
現在の北朝鮮も、また韓国や中国の「反日」も、排外主義の一種といわれています。
歴史上ではナポレオンがなぜあれだけ国外遠征ばかりを行ったのか、ということの一つの要因が「国内政治の矛盾からの排外主義」ではないかといわれているのです。
当然、「国民の同意のない政治」⇒「国民への弾圧」⇒「国民の不満の蓄積」⇒「国民の目をそらすための排外主義」となります。
当たり前ですが、排外主義はその相手国からの不満が出ます。
そして同様に、その相手国との険悪な雰囲気から戦争が発生するということになるのです。
このように考えれば「独裁政権」というのは、単純に「戦争への危険性が高まる」ということになります。
長くなったので次に行きましょう。
次は「軍事政権」です。
「軍事政権」とは、軍が政治を行っているということになります。
ちなみに、軍に所属していても、軍の中における行政官など、行政の専門家がいればよいのですが、必ずしもそうではありません。
もちろん、大東亜戦争のころの今村均中将や、政治はしていませんがのちのインドやミャンマーの政治の基礎を作った藤原岩市大佐のように、軍に所属しても政治のセンスがあったり国民に愛される人も少なくありません。
一概に、軍人であるからといって、戦争が好きとか、政治ができないというような、いわゆる「レッテル貼り」は良くないのですが、そのような例外を言っていると、話が一向に進まなくなってしまうので、例外があるということを認識してもらうにとどめます。
例外があるとしたうえで、軍といえば、基本的には政治は苦手というイメージがあります。
単純に言えば、普段の政治の決断などに関しては、基本的に一般人も軍人も社会で生活しているのですから、変わらないのではないかと思います。
しかし、非常事態や究極の選択の時に、軍人は、基本的に「軍人としての選択」つまり、軍を使った解決手段を選ぶという傾向があるのです。
これは、優秀な軍人であればあるほど、そのような傾向が強く、その傾向をいかに考えるかということが最も重要になります。
日常は問題はないのですが、特に外交において、最終的に「平和的な解決」ということもなければ、「軍事力を背景にした交渉」ということに傾いてしまうことが少なくないのです。
もちろん個人差があります。
能力のある人は、その「究極の選択」にも幅があるでしょうし、戦わない選択をする可能性もあります。
しかし、そもそも軍人は軍人としての教育を受けており、優秀な軍人であればあるほど、軍人としての考え方に基づいて話をすることになります。
その中において、結局は戦争という結論つまり、武力行使ということにつながる場合が出てきてしまうということになります。
一方で、その交渉の相手方も、「人間関係は鏡」といわれるように、こちらがけんか腰で言えば、相手も自然とけんか腰になります。
外交の場であっても「売り言葉に買い言葉」のような話は少なくありません。
そのように考えた場合には、当然に戦争になる可能性が高くなるということにつながるのです。
さて、三つ目の「構造的暴力」に行きましょう。
ある意味で「構造的暴力」というのは「人の命が軽い」ということになります。
災害が多かったり、あるいは政治犯の収容所などが多く、簡単に人が殺されてしまったり、あるいは、疫病で人がすぐに死んでしまうということになることがあります。
このような状況の時には、人間の心理的にはどのようなことが起きるでしょうか。
まずは、自分の大事な人が亡くなれば、基本的には「悲しく」なります。
しかし、人間の心理というのは、うまくできているもので、基本的に、自分の精神が壊れないように、一定の感情を超えてしまった場合は「慣れる」という状況が出てくることになります。
まさに、「人の死の悲しみに慣れる」という感じです。
「泣いていてもしょうがない」と吹っ切れるとか開き直るというのではありません。
「悲しみという感情が飽和状態になる」という感覚でしょうか。
そして、ここからが問題で、いくつかの感情が別々に沸き上がります。
その強弱は違いますが、そのいくつかというのは「神・運命を呪う」「自暴自棄になる」「他人を同じ目にあわせようとする」という感じです。
飽和状態の恐ろしさは、まずは、神や運命を信じ、成仏や天国に行くことを祈りますが、そのうち自分もそちらに行きたいと思うようになります。
その次に、神を呪い、そして、幸せそうなほかの人々を呪い、嫉妬するようになるのです。
このことから「悲しみの連鎖」が始まります。
人間は弱いので「誰かを恨まなければ飽和状態から脱することができない」という感じになるのです。
その感覚から「人の命の比重が軽くなる」ということになります。
もっと言えば、「死んだ方がよい」というような感覚になるのです。
イスラムの自爆テロなどは、「今を生きているよりは、死んで神のもとに行った方が幸せ」ということになります。
「死ぬ」ことよりも「生きているほうがつらい」という感覚は自殺の定番ですが、これが社会的なコンセンサスをとると、人の命を軽く考える集団ができ、死を恐れない軍隊ができるということになります。
「生きる方がつらい」が、「なぜ自分たちだけ」というような嫉妬につながると、まさに、軍事的なオプションが出来上がるということになるのです。
なお、この場合は「戦争」だけではなく「テロ」などもこの中に含まれるということになります。
さて四つ目は「民族主義」です。
現在「民族」を自称している集団は世界で5000ほどあります。
もちろん、5000もの民族が存在しているのか、それが混血などはなく、純粋な民族といえるのかなどはかなり疑問をもちます。
同時に、地球上に国家を5000も存在させるのは不可能という感じがします。
そのような場合、単純に、どこかの民族がどこかの民族を支配するという構造ができます。
もちろん「同じ国民」ということで同朋意識があればよいですが、基本的には「上下関係」もっと言えば「差別」が生まれてきます。
そして、その民族による独立や不満が出た場合、これは戦争に発展します。
このことに関しては、前の第17話の、民族テロと宗教テロを語った「第17話 テロ報道に見る地域独立紛争と近代国民国家の限界」で詳しく語ったと思います。
よろしければバックナンバーをお読みください。
長くなったので最後に行きましょう。
「戦争のコスト」の問題です。
コストという考え方には二つの考え方があります。
一つは「金銭」で、もう一つは「人」という考え方になります。
金銭という意味では、「ミサイルの開発費用」というような感じになるでしょうか。
これに関しては議論はいりません。
武器が高ければ、それだけ、武器を損なうことができないし、よほどの軍資金がなければ国家が破産してしまうので戦争はできません。
これはわかりやすいと思います。
もう一つが人です。
実際に「男女平等」などということがありますが、実際には戦場で最前線に出るのは若い男性です。
この場合「少子化」が大きな問題になります。
つまり「兵員がいなければ戦争継続能力はない」ということになるのです。
これは非常に大きな問題で、2016年に中国の習近平が慌てて一人っ子政策をやめたことなどで見てわかるように、人口がいかに多くても、老人や子供ばかりでは戦争ができないということになるのです。
このように考えれば、「少子化」ということが非常に大きな問題になるということになります。
もっと言えば、「戦争」の抑止力として「少子化」があり、子供が育たないような環境を作れば、実は戦争は起きないということになります。
北朝鮮が飛行機や銃などをそろえるのではなく、ミサイルを開発しているというのは、現在の北朝鮮の人口問題から非常に合理的な軍備と言えます。
逆に言えば、少子化、少なくとも人口の減少によって、地上戦などを行うことができないのではないかという予想が出るのです。
このように考えてみれば、北朝鮮の戦争の可能性は、少子化以外のところでは非常に高いと言えます。
当然、これらの分析はロシアも行っており、ロシアも、その内容を考えているということになるのです。
ちなみに中国も、この分類で言えば似たような感じになっているということになります。
ロシアは極東部において、「戦争の可能性が高い政府を二つ抱えている」状態であるということになるのです。
さて、長くなりましたが次回からそのロシアについて考えてみましょう。
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