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米国住みから見た、「浜ちゃん黒塗り騒動」の違和感

年末特番『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』で、ダウンタウンの浜田雅功さんが、アメリカの俳優エディー・マーフィーを真似る際に顔を黒塗りにしたことが批判の的となった一件は、相方の松本人志さんもTVで言及するなど大きな話題となりました。今回のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』では、米在住の作家で日米のエンタメ業界にも造詣が深い冷泉さんが、メルマガ読者の方から来た、このダウンタウン問題に関する意見を取り上げるとともに、いま現在の「日本のお笑い」について考察しています。

日本のお笑いについて考える

昨年末に「弱さ」の問題について、再度の問題提起をさせていただいたところ、ある読者の方から以下のようなコメントをいただきました。日本の「お笑い」について2つの文章を引用しながらの議論であり、重要な問題提起と思いましたので、この欄で取り上げさせていただこうと思います。

いつも楽しみに読ませていただいております。ありがとうございます。

「弱さ」について、最初のメルマガで触れられていたので、最近話題の以下の内容について取り上げさせていただければと思いました。

こちらの記事は、多少煽り気味と思います。

正月の民放番組で感じた「人権後進国」日本(駒崎弘樹)

こういう内容が「あり」とされるのであれば、日本全体に人権後進国のレッテルが貼られても、仕方がないと思います。

こちらは、メインタイトルに煽り気味を感じましたが、サブタイトルと内容はしっかりしていると感じました。

日本のお笑い界に「人権感覚」を求めることは、八百屋に魚を売れと言っているようなものです。(黒岩揺光)

一つの番組だけ見て「人権意識」うんぬん言っても、何も変わらない気がする。

1本目について、どちらの側にも、以前メルマガで問題になった質の弱さを感じました。

  • このお笑い番組を批判するときに「「人権後進国」日本」と書いてしまうのは、この批判を一番理解してほしいと著者が感じている人たちの抱える弱さに配慮が足りない。ヒロシマの例もいただけない。それを例に出すこと自体、人権の意識が足りないと思う。
  • 「ミンストレル・ショー」の歴史を紐解くくだりなど、何と言えばいいのでしょうか、こういう上から目線というのは、どうしたらいいものでしょう?これを弱さの問題と呼べばいいのか、少しわからなくなりますが・・・
  • 逆から、この「差別する意識がなかったから問題ない」のある意味でステレオタイプの反論は何なのでしょう。大げさに取り上げれば、自己防衛であり、たとえば「いじめる意識がなかったから問題ない」というおかしな論理と似ている事に気付き、弱さを認めることができない人の開き直り、と捉えることはできます。しかし、話を大げさにし過ぎている印象も少し持っています。
  • 日本では「ミンストレル・ショー」のような歴史がないから、関係ない、という意見はもちろん、これだけ国際的につながっている社会だからタブー、というので私は納得しますが、この意見を言っている人には伝わらないと思っています。どうすれば良いのかと思っています。
  • そもそもどの国も後進的な部分があり、フランスのシャルリエブドの風刺や、アメリカでやはり根強い人種差別意識、また今噴出している性差別の問題などは、私は、そして上で紹介した記事の著者たちの基準でも後進的だと思います。そう思うと、日本の弱さというより、人間自体が、もしくは人間が集まると自然に起こりうる構造的な弱さがあるのではと感じています。そのメカニズムを言語化することが必要と思いますし、その試行錯誤の一つとして、今回話題にさせていただきました。

だんだん、取り留めがなくなってすみません。この問題について取り上げていただけると嬉しいです。ひとまず私は、この手のバラエティー番組は見ないと決め、またそれを公に表明することと思っています。世の中には面白いことがたくさんありますし、別に見なくても何も困りませんし。

貴重なご意見をありがとうございました。確かに駒崎氏の書き方は煽り気味」ですし、「上から目線」であるのはいつもの通りです。この点に関してはある意味ではブレないのが駒崎氏の持ち味なのかもしれません。

その一方で、黒岩氏の指摘、つまり日本のお笑いというのは「人権感覚がない」というのは「昔から徹底しており、一つの番組だけを見て批判しても変わらない」という主張は厳しく、また重たいものがあると思いました。

日本の「お笑い」ということでは、茂木健一郎氏が、2017年の2月に「日本のお笑い芸人たちは、上下関係や空気を読んだ笑いに終止し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無。後者が支配する地上波テレビはオワコン」だというツイートをして炎上していたことが想起されます。

茂木健一郎氏に関して言えば、ダウンタウンの松本人志氏が安倍首相と会食をしていたことも批判をしており、奇しくもそのダウンタウンの浜田雅功氏がこの年末の特番で「黒塗り騒動」を起こしているわけです。

この問題ですが、確かに日本のお笑いが世界標準から見て変わっているのは事実ですし、どこか行き詰まっているように思えるのも本当だと思います。ですが、それを人権感覚のなさという政治的な批判にしてしまっても議論はなかなか前へ進まないように思います。

そこで、今回は「日本のお笑いの特質」について、そもそも「笑いとは何か?」ということから考えてみることにします。

まず「笑いとは何か?」という問題ですが、大げさに言うと「哲学的な難しい問題」であるわけです。そこで、古今東西の哲学者や思想家が言っていることを総合しますと、「硬直すべきものが弛緩していると笑いになる」「弛緩しているべきものが硬直化していると笑いになる」「些細なものが誇張されると笑位になる」「大げさなものがサラッと無視されると笑いになる」というような説明がされています。

こうした例を総合してまとめてみると、「異化効果」つまり「本来AであるべきものがBになることで、AとBの差異が非日常性を生みそのズレの感覚に笑いを感じる」というメカニズムが働いているということができそうです。

この仮説に基づいて以下のようなことが言えると思います。

まずアメリカでは政治風刺というのが今でも盛んです。例えば、一昨年の大統領選登場以来、ドナルド・トランプというキャラクターは、NBC『サタデーナイトライブ(SNL)』でアレック・ボールドウィンが演じているように、徹底的にお笑いの対象となっているわけです。

では、アメリカではこのように政治家への風刺が当たり前なのに、どうして日本ではお笑いとして通用しないのでしょうか? 例えば日本のお笑い番組で、安倍首相のソックリさんが出て来て、安倍首相の言い間違いや狼狽するシーンを演じたらどうでしょう?

それは、ちっとも面白くないということになりそうです。では、アメリカには「政治家を風刺の対象とするような成熟した文化」があるが、日本というのは「政治家を笑うことのできない幼稚な文化」なのでしょうか?

全く違うと思います。

何故、トランプ大統領についてモノマネという手法で風刺することが可能なのかというと、アメリカの場合「大統領は賢くて立派でなくてはならない」という極めて保守的な思想が広範に共有されているからです。

まずこの共有感覚がベースにあって、その上でトランプという逸脱があり、アレック・ボールドウィンはその逸脱を誇張することで、二重の異化効果を発揮することができているわけです。

これに対して、日本で安倍首相への風刺がお笑いにならないのは、そもそも政治家というのは知的ではないクリーンでもない」ということが一般的に強く共有されてしまっているからです。

ですから、安倍総理が例えば「モリカケ問題」を追及されてウロウロしている場面を、それこそダウンタウンなどがモノマネをしても、「異化効果」つまり、何かが「あるべきもの」から逸脱していて、その「ズレ」や「誇張」が笑いを生むということは全くないわけです。そこを無理にやってしまうと、「ちっとも面白くない」のです。

そこで「面白くない」理由は、左派だから機械的に「安倍批判」をしているのだろう、だから気に入らないというような政治的なものではなく、とにかく「あるべきものからの逸脱ズレという現象が起きていないので、全く笑いにならないのです。

では、今回の「アフリカ系を模した黒塗り騒動」はどう考えたら良いのでしょうか?

これはまた別の問題があります。日本文化には「ウチ」すなわち身内という概念と、「ソト」すなわち外部という概念があり、その間には分厚い壁が立ちはだかっています。

人種ということでは、例えばですが、お笑いのショーに本物のアフリカ系アメリカ人が出てきてしまっては、「完全にソトの人」ということになってしまいます。ソトの人というのは、それ自体が非日常的な属性ですから、「日常性の中にズラしとしての非日常性」を演出するという「お笑い」にはならないわけです。

ですから、中身は日本人で喋りも日本語の人物が黒塗りでアフリカ系の真似をすると「お笑いになるというわけです。勿論、人種による身体的特徴を表現の道具にするなどというのは、21世紀の現在では国際的なタブーですから、私としても一切認めるつもりはありませんが、少なくとも、日本のお笑いのメカニズム」からすれば、このような表現が出てくるのは合理的だし、それで日本のお笑いはオワコンということにはならないと思います。

同じような話は、「ハーフ芸能人」にも言えます。美しい女性、例えば若くて人形のような白人女性が出てくれば、TVの画面が華やかになるかと思うと、そうではないわけです。つまり「ソトの人」を連れてきても、最初から非日常なのですから、面白くも何ともないのです。

ですが、流暢な日本語を喋り、しかも(ここが大事なのですが)欧米系のような顔をしながら低姿勢で「自信ないんですぅ・・・」とか「私、人見知りでぇ・・・」というような「今どきの低姿勢」で喋れるのに、顔は「ハーフ顔で理想的」であると、基本的にその人は「ウチ」のメンバーと認知されて、スタート地点としては日常性が付与されます。その上で、「顔立ちが美しいという非日常性が初めて認知されるというわけです。

私は、この「ハーフ芸能人」という存在自体が人種差別だと思っていますが、それとは別に、この「ウチとソト」そして「日常と非日常」のメカニズムからすると、外国人ではダメで、ハーフ美女なら歓迎されるというのは、ロジックとしては成立するわけです。

お笑いの話に戻しますと、例えば「イジリ芸」とか「お仕置きの暴力ネタ」なども批判されるわけですが、これも「親近感があるのに露悪的な振る舞いをする」という「異化効果」と、「普通はここまでなのにあそこまでやってしまう」という「過剰というズラし」による「異化効果」のメカニズムから「お笑いとして成立してしまっているということがあるわけです。

勿論、ベッキーさんへのキックにしても、ひな壇のお笑いトークにおける「上下関係」とか「いじりキャラ」などというのは、全部がダメだと思いますが、それ以前の問題として、どうして笑いとして成立するのかという点については、立派な(?)メカニズムがあるということは否定できません。

ここで本メルマガのサブテーマとなっている「弱さの研究」という視点を導入してみますと、例えば「日本人は弱さを抱えているので、自分の弱い自尊心を満たすために、外部の人間を差別したり、弱い人間に暴力を振るったりする映像を見て安堵感を得ている」というような解説はどうでしょうか?

私は、この「お笑い」という問題に関しては、この理屈は観察として、評価として間違っていると思います。そうではなくて、「ウチとソト」「日常と非日常」という複雑なメカニズムがそこにはあるのだと思います。

但し、更に俯瞰的に見てみた時に、「ウチ」に対して限りなく甘えていく一方で、「ソト」との交渉や関係性構築への意欲に欠けるカルチャー、あるいは「日常性に閉塞感を感じ」てしまい、無謀な非日常性を麻薬のように追い求めるカルチャーには「弱さ」の問題が横たわっているかもしれません。

ですが、「お笑い」という問題に関しては、少なくとも茂木氏の言うような「オワコン」だとか、駒崎氏の言うような「後進国」と言う切り捨て方では済まない、複雑な文化の構造があるように思います。また、とりあえず現象面に関して言えば「弱さ」の問題とも余り関係はないように思います。

image by: shutterstock

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東京都生まれ。東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒。1993年より米国在住。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を寄稿。米国と日本を行き来する冷泉さんだからこその鋭い記事が人気のメルマガは第1~第4火曜日配信。

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