たった100円で4000億企業に。ダイソー社長の知られざる夜逃げ人生

 

「100円均一にしたくなかった」~ダイソー涙の誕生秘話

当時、日雇い労働でなんとか暮らしていた矢野。ふと見ると人だかりができていた。それは移動販売。並べられた家庭用品や日用雑貨が飛ぶように売れていた。

29歳になった矢野は1972年、移動販売の会社矢野商店」を起こし、昼夜なく懸命に働いた。

順調なスタートを切った矢野に災難が降りかかる。自宅兼倉庫が火事にあったのだ。放火だった。財産を失い、呆然と立ち尽くす矢野だが、焼け残ったダンボールを見つけた。中には無傷の商品が入っていた。これが矢野に転機をもたらした。

生活費の足しにしようと移動販売の準備をしていると、客が集まってきた。次々と値段を聞かれていくうちに、矢野は「もう全部100円でいいです」。これこそが「100円均一誕生の瞬間だった。矢野はこのときのことを「値段をつける暇がなかったし、人手がいない。仕方がなかった。本当は100円均一にしたくなかった」と、振り返る。

100円均一という安さは人気を呼び、行く先々で大盛況に。しかし当時の商品には、粗悪品ではないが、いわゆるB級品も混じっていた。客からは「どうせ安物買いの銭失いよ」という声も上がった。

世間の評価はそんな物なのか。矢野は唇をかんだ。

安物買いの銭失いと言われて、悔しい思いをずっとしてきたんです。その思いが、いい商品作りにつながった。うれしいです。いつもバカにされていたので」(矢野)

100円でも客が満足する商品を作ろう」と、矢野は100円ギリギリの原価で商品を作るようメーカーと交渉、品数を増やしていった。するとそれらの商品は次第に評判となり、大手スーパーや百貨店から店頭販売の依頼が殺到するようになった。

1977年には大創産業に社名変更し、念願だった常設の店舗もオープン。2001年の台湾出店を皮切りに海外にも進出。100均グッズは世界に広がっている。

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ダイソー流の働き方~誰もが輝ける社会へ

広島県にあるダイソー本社。そこでは障がい者のスタッフも働いている。朝礼を終えて向かった先は、仕分け作業の部屋。国内各地の店舗に書類や備品を正確に届けるための、大事な仕事だ。

ダイソーで働く障がい者は全国におよそ250人。ベテランも多い。入社18年目の万足厚司は「前は鉄工所で働いていた。その時はきつかったけど、ここに入って楽になった」と言う。

楽しく働けるように、月に1回、親睦会を開き、コミュニケーションの場を設けている。

20年前から障がい者雇用を進めてきた矢野は今、もっと大きなことを考えている。

かつて家具のアウトレット店だった建物。4年前に購入し、新たな施設に生まれ変わらせるという。今は見本や試作品が置いてある倉庫になっているが、大幅にリフォームする。

1階は70人規模のイートインスペースがあるパン屋さん。2階は障がい者スタッフがメインとなって働く100円ショップ。そして3階は、デイサービスや障がい者の職業訓練の場にする。

さらに新しい取り組みも。並んでいるのは障がい者が描いたアート作品。これらで矢野はダイソーの新たな100円商品を生み出した。「パラリンアートカレンダー」(108円)というカレンダーだ。売り上げの一部はイラストを描いた障がい者の支援に。自立の手助けになればという。

社会貢献をするのが夢です。その夢を実現できる境遇にまできたのはありがたい」(矢野)

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ダイソー本社には、週に1度行う伝統の作業がある。それは「デバンニング」というトラックからの荷おろし社長の矢野自ら率先して行う

本社の社員は年齢や部署に関係なく参加。こうして商品を実感するのだ。勤続30年、部長の新広等も汗を流していた。

「これはみんなでやらないと。上司とかは関係ない。荷物を触るのは大事です、商品だから」(新広)

100円だからこそ商品に愛情をそれがダイソー魂だ

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