MAG2 NEWS MENU

商社マンからフリーターへ。哲学者・小川仁志を転落へ導く天安門

今まで100冊以上の著書を出版し、NHKの番組で哲学を知らない人たちに向けてわかりやすく名著を紹介したことでも話題になった哲学者の小川仁志さん。しかし、そんな小川さんの半生は実に波瀾万丈そのものでした。変わり者だった幼少期から合コンキングと呼ばれた京都大学時代、その後、伊藤忠商事へ入社しエリート商社マンに。しかし、順風満帆と思われた人生の歯車は、ひょんなことから狂い始めたのです……。

【関連記事】京大、伊藤忠からの引きこもり。哲学者・小川仁志の波瀾万丈半生

プロフィール:小川仁志(おがわ・ひとし)
1970年、京都府生まれ。哲学者・山口大学国際総合科学部准教授。京都大学法学部卒、名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。博士(人間文化)。米プリンストン大学客員研究員等を経て現職。大学で新しいグローバル教育を牽引する傍ら、商店街で「哲学カフェ」を主宰するなど、市民のための哲学を実践している。2018年4月からはEテレ「世界の哲学者に人生相談」(木曜23時〜)にレギュラー出演。専門は公共哲学。著書も多く、海外での翻訳出版も含めると100冊以上。近著に『哲学の最新キーワードを読む』(講談社現代新書)等多数。 ブログ「哲学者の小川さん

小川仁志の情熱人生―挫折、努力、ときどき哲学 第二回

商社マン時代の小川仁志

前回は幼少期から就職するまでを一気にご紹介しましたが、今回はわりと短い期間のお話しをしたいと思います。おそらく5回の連載の中で実際の期間としても一番短い、わずか3年半ほどの年月の間に起こった出来事についてです。

しかしこの3年半は、私の人生にとってとても大きな意味とインパクトをもつ時期となりました。1993年4月に伊藤忠商事に入社して、退職するまでの期間です。よくある「若者はなぜ3年で会社を辞めるのか」みたいに聞こえるかもしれませんが、それとは少しわけが違います(と個人的には思っていますが、同じなのかもしれません)。

商社を選んだのは、正直かっこよさです。世界を飛び回って24時間働く商社マン、かっこいいじゃないですか。でも、当然ながら、そんなにかっこよくなれるのはもっと経験を積んでからで、ビジネスのイロハも知らない私には何もできませんでした。もっとも、仕事はそこそこでしたが人との出会いには恵まれました。合コンの話じゃないですよ。

優秀な先輩や上司、時には歴史的人物といってもいいような人に出くわすことさえありました。瀬島龍三さんもその一人です。当時はまだご存命で、たしか顧問をされていたかと思います。大本営作戦参謀中曽根政権のブレーンなども務めた伝説の商社マンで、山崎豊子の『不毛地帯』のモデルともいわれています。その瀬島さんと、たった一度だけですが言葉を交わす機会さえありました。後に民間初の中国大使になられた丹羽宇一郎元会長も、当時業務部長をされていたように記憶しています。そんなすごい人たちのいる職場で働けるのは、たしかに幸せでした。

そして何より幸せだったのは、100人以上もいる同期たちみんなと仲が良かったことです。特に社員寮で共同生活をしていたので、寮に住んでいた同期はもう家族同然です。一緒にお風呂に入り、ご飯を食べ、飲む。当時は寮祭というのがあったのですが、その実行委員長も買って出て盛り上げました。彼らとは今も会って飲むことがあります。一生の宝です。

そんな楽しい商社マン生活でしたが、学生時代にさぼり続け、なんの取り柄もなかった私は正直焦っていました。同期の中には語学が良くできて、早くも海外へ出張したり、活躍している人がいました。そこで私も注目を浴びつつあった中国語の語学研修に手を挙げたのです。すると、運よく2年目から台湾で勉強させてもらえることになりました。しかも1年間も。その後は北京で働くことになっていました。

私の人生に大きな転機が訪れたのは台湾です。1994年の台湾はまさに民主化運動真っ盛りといった様相を呈していました。政治の季節です。それまで国民党に虐げられてきた野党民進党のリーダーが、初めて要職である台北市長選で勝利しそうだったからです。貧しい家庭の出でありながら、苦学して弁護士となり、人権派弁護士として民主化運動にかかわってきた陳水扁でした。彼は見事当選し、その後、総統にまで上り詰めます。のちにスキャンダルに巻き込まれて失脚しますが、彼が英雄であったことは間違いありません。

しかし、最初のうちはそんなことに当然興味も何もなく、語学を必死で勉強するほかは、おいしい台湾の料理を食べ歩いたり、休日はゴルフをしたりして海外生活を楽しんでいました。相変わらずイベント好きだったので、学校でもいろいろなことを取り仕切っているうちに、模範学生として表彰もされました。勉強で模範ならもっと嬉しかったのですが、なんでも評価されるのは嬉しいものです。ますますイベントを取り仕切るのに精を出しました。

ところがひょんなことから熱い台湾の民主化運動に私も巻き込まれてしまったのです。実は、今日は政治を語らないという名前の「今天不談政治」というバリバリの政治番組があって、そこで国民党の大物政治家と日本の外務省の人が話すことになっていました。しかし、独立を掲げる野党が選挙に勝ちそうだということで中国が圧力をかけてきていたため、外務省の人が急きょテレビに出られなくなったというのです。

そこで民間の面白い奴はいないかと学校に問い合わせがあり、「模範学生」の私が出ることになったというわけです。相手は日本通で日本語も話せるとのことだったのですが、頑張って覚えたての中国語を交えて話しました。そのとき私が軽い気持ちで、台湾は謎の島だといったのですが、それが間違って迷える島と字幕が出てしまったのです。私の発音が間違っているわけではなくて、謎の島と迷える島は発音が同じだったのです!

オンエアの後、独立派の人たちから「俺たちは少しも迷ってない」と詰め寄られ、政治の集会にまで連れて行かれました。でも、それがきっかけで、社会を変えるということにこれだけ熱くなれる人がいることを知りました。そして次第に私自身がその魅力にとりつかれていったのです。

考えてみれば80年代のバブル期、自分のことばかり、あるいはお金儲けのことばかり考えて青春を過ごしてきましたから、頭をガツンと殴られたような衝撃があったのでしょう。私の中で何かが大きく変わり始めていました。でも、まだそれが何なのか、自分の人生にどのような影響を及ぼすことになるのか、そのときは予想だにしませんでした。

今から思えばこれが私と公共哲学との出会いだったのでしょう。自分つまり「と社会を意味するとをいかにつなげるか。それまで私の中に「私」と「公」をつなげるなどと言う発想はありませんでした。ドイツ出身の女性現代思想家ハンナ・アーレントが、活動(アクション)こそがその意識をもたらすと論じていますが、私にとって台湾で政治の集会に参加したり、若者たちと話すことがその活動になっていたようです。

意識はしていませんでしたが、なんとなく社会で起こることに関心を持つようにはなっていたように思います。そうこうしているうちに楽しい1年が過ぎ去り、温かい南国から寒風吹きすさぶ北京へと赴任することになったのです。

北京に移ってからは、あまりいいことはありませんでした。仕事はきついし、上司は厳しいし、よく息抜きに近くの天安門広場に出かけたものです。昼休みにでも行ける距離でした。近くにマクドナルドがあったので、テイクアウトして、天安門の見える場所でバーガーを頬張っていたことを覚えています。

そんなある日のこと、ふと思い出したのです。「ああここでたしか大きな事件があったっけ」と。学生時代にテレビで見たあの天安門事件です。なぜこんなボケボケなことをいっているかというと、学生時代の私が天安門事件にまったく関心がなかったのと、そのとき私の目の前にそびえたっていた天安門があまりにも静かだったからです。まるで何事もなかったかのように、ただ静かにその場に存在していたのです。

そのとき私は稲妻に打たれたかのような錯覚を覚えました。疲れていたからかもしれません。学生時代にテレビで見た天安門事件と台湾で見た民主化のうねりそしてこの目の前の不気味なまでに静かな天安門の映像が次々と網膜の中で切り替わっていったのです。そして点と点が線になっていきました。どれくらいの時間がたったでしょうか。すべての点がつながったときには、私はもう会社を辞める決心をしていました

おそらくこの決心は、急になされたわけではなかったのでしょう。あの日、台湾で民衆に取り囲まれ、その後北京で悶々として働きながら、私の決心は徐々に固められていたのだと思います。それが天安門の前で、完全に形になっただけだと。

北京での生活が1年たって東京に戻ると、しばらくして私は会社に辞表を提出しました。当時の上司はとても人望のある人で、親身になって慰留してくださいました。後に社長になる小林栄三さんです。円満に退職できたのも、小林さんのおかげです。私が哲学者になってから著書をお送りしたところ、とても喜んでいただけました。なんとか今活躍できているというのが、せめてもの恩返しです。

将来社会を変えることをメールで宣言し、かっこよく退社した私は、本当のところまだ何も決めていませんでした。とりあえず台湾の陳水扁のように人権派弁護士になって、日本社会を変えてやろうくらいは思っていましたが。資金も用意していなければ、司法試験の学校に行くのでもない。客観的に見ればただのフリーターになってしまったのです。

でも、気持ちは充実していました。人生で初めて自由を手にした気がしたからです。会社で働いてから辞めるのでなければ、あの自由の感覚は味わえないものです。学生が感じる自由とはわけが違います。ただ、その自由の重みに耐えられなくなるのは時間の問題でした。

かつてフランスの哲学者サルトルはこう喝破しました。「人間は自由の刑に処せられている」。この言葉の意味が本当にわかるようになるまでに私は文字通り血を流すことになりました……。(第3回へ続く)

image by: shutterstock.com

小川仁志

プロフィール:小川仁志(おがわ・ひとし)

この著者の記事一覧はこちら

1970年、京都府生まれ。哲学者・山口大学国際総合科学部准教授。京都大学法学部卒、名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。博士(人間文化)。徳山工業高等専門学校准教授、米プリンストン大学客員研究員等を経て現職。大学で新しいグローバル教育を牽引する傍ら、商店街で「哲学カフェ」を主宰するなど、市民のための哲学を実践している。また、テレビをはじめ各種メディアにて哲学の普及にも努めている。2018年4月からはEテレ「世界の哲学者に人生相談」にレギュラー出演。専門は公共哲学。著書も多く、海外での翻訳出版も含めると100冊以上。近著に『超・知的生産術』(PHP研究所)、『哲学者が伝えたい人生に役立つ30の言葉』(アスコム)、『悩みを自分に問いかけ、思考すれば、すべて解決する』(電波社)、『突然頭が鋭くなる42の思考実験』(SBクリエイティブ)、『哲学の最新キーワードを読む』(講談社現代新書)等。ブログ「哲学者の小川さん

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け