文書の書き換えが明るみとなり、再び日本中の注目の的となった「森友問題」。その陰で、関係者とされる2人官僚の尊い命が失われています。メルマガ 『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さんは、これらの死には「財務省の体質」が大きく関係しており、私たちも考えるべきテーマだとの持論を展開しています。
財務省の心を追い詰める仕事をあらためたい
精神的な荒涼感、乾いた心になっていくのが、昨今の森友学園をめぐる文書書き換え問題。
書き換えに関係した近畿財務局職員や財務省理財局職員の自殺は、心の問題として捉える時、その苦しさを想像すると、もの悲しい気分になる。
その心の問題を惹き起こしているのは、財務省の体質であり、国会行政の中枢を担う財務省というエリート集団の置かれた仕事の環境だ。
それは日本の官僚体質の象徴でもある。
この自殺には国民の負託を受けた国会議員による政府が関わっているとの認識の上で、私たちの社会が、一人の人間を心理的に追い詰めていることを、私たちの問題として考えなければならないと思う。
私の日々の相談の中で、精神疾患になったきっかけの話で多いのが、「社会での」出来事。
学校や職場など、他者との関わりあいの中で心が潰されていく、という日々が積み重ねられ、ダウン。
仕事がうまくいかない、勉強がうまくいかない、ことは個人的な問題であったにしても、その障壁を乗り越えるのが、仲間や周囲、環境の力であるが、それらが力にならず、むしろ圧迫するだけのファクターになってしまう。
人間関係、強いて言えば、コミュニケーションの問題で、心が崩れてしまうというケースだ。
人を押しつぶす類のコミュニケーションは巷間、あふれている。
メディアで強調される事例はほんの一部で、社会へのメッセージと受け止めたい。
だから、森友問題が起こって、その間、問題と関係のある可能性ある2人が亡くなっているのは、無念、という心の叫びのような気がしてならない。
役所も企業も、その組織のルールに則って仕事を遂行している。
役所の場合、民主主義のルールに則って、遵法の精神を基本に業務をすることが求められ、企業の場合は企業の社会での役割を認識しつつ利益を追求するために効果的な業務を行っていく。
どちらも人間のやることだから、結果に向けてAというプロセスとBというプロセスがある場合、上部からの命令で自分の選択肢とは違うプロセスに従事しなければならない時がある。
それは、ストレスであるのだが、乗り越えるのは、説明責任などのコミュニケーションである。
「Aを選ぶ君の考えは正しい。しかし今回は試行のためにBをやってみないか」と上部から説明があれば、意見も尊重され、多くの方は納得できるだろう。
しかし、遵法が基本の役人が書き換えを指示されたら、それは役人としてのプライドとして自分を成り立たせることが出来るであろうか。
遵法ではない力学が働く中で従事させられる仕事は、もはや自分はいらない、ということになる。
これが今の財務省の体質であり、その結果として自殺があるように思われてならない。
文書改ざんが1年以上も表面化しなかったのは財務省の鉄壁さだ。
加計学園問題は文部科学省内、陸上自衛隊日報問題は防衛省内からリークがあったとされる。
結局、この鉄壁の誤謬を許さない体質が、「政治の力」に結び付くと、白いものも黒と言ってしまう体質でもあるのだ。
今回の自殺者は、その体質の犠牲者といえよう。
中央官庁は、国民に目を向けた仕事をするのは当然だが、そこで働く役人のひとり一人も大切にしてほしい。
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