テレビやネットではいつでも最新ニュースを無料で見ることができ、コンビニなどで手軽に新聞を買うこともできる日本。しかし、メルマガ 『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さんによると、日本人は英独米に比べ、個人的に信じている「マイ・メディア」がなく、さらに市民の政治的関心も薄いとのこと。そこから浮かび上がる日本の大きな問題とは、一体何なのでしょうか。
「マイ・メディア」で浮かび上がる日本の問題
日本は新聞大国であり、NHKは全国の津々浦々で放送され、民放テレビ局も地方ローカル局を通じて、日本各地で同時に同じ番組を見ることができる。
これらメディア環境は、やはり観る側の一定の信頼があるから成り立っているはずだから、日本人はメディアへの信頼が高い、と考えられがちである。
しかしながら、東京大大学院の林香里教授の『メディア不信』(岩波新書)で紹介されたロイタージャーナリズム研究所による国際比較を見ると、実は私たちの社会はメディアに対し、一定の信頼をしているものの、個人的に信じられるまたは信じている「マイ・メディア」も持っていないことが指摘されている。
同調査によると、36か国に「ほとんどのニュースをほぼ信頼するか」を質問したところ、日本は43パーセントが「信頼する」と答えたが、これは英国と同順位の36か国中17位。
ドイツは50パーセントで7位だった。
しかし、質問が「あなたは、あなたが利用しているほとんどのニュースをほぼ信頼するか」で「信頼する」のは、日本が44パーセントで36か国中28位、英国は51パーセントで19位、ドイツは58パーセントで6位、米国は53パーセント13位である。
つまり、英独米は日本よりも「自分が信じるメディアがある」ということであり、それは結果的に昨今の分断を導いているという指摘がある。
林教授は「米国のようにメディア一般への信頼と、自分が利用するメディアとの信頼の間に大きなギャップがあることは、すなわち、メディア市場全体が分断されており、そこに強い党派性が存在することを意味する」と説明している。
自分が「信頼する」メディアである「マイ・メディア」を持たない日本は、マイ・メディアを持つ欧米が結果として惹き起こされている「分断化」までに至っていないのはよいことではある。
しかし見方を変えると、信じられるマスコミュニケーションの不在でもあり、市民の意見が反映したメディアがないことは、市民の政治参加の素地が形成されにくいことにつながっているともいえる。
伝統的なキリスト教社会に根付いている欧州、自由と正義の価値観とともにやはりキリスト教に大きな影響を受け居ている米国もどちらも「信頼する」ものを持ったうえで、日々活動し、自分の生きる規範のようなものにしていくのは、習慣化されている。
その上で党派性は、自分が社会の中で生きていることに自覚的になっていることであり、自覚的になればこそ、自分の生活の制度や枠組みを決めている政治の動向も気になることになる。
私がドイツや韓国で住んだ時に感じたカルチャーギャップは、誰もが政治的な意見を持っており、会社員も主婦も同じように政治的な主張をすることであった。
しかし、日本では市民が政治的な主張を積極的にすることはない。国会前のデモも最近は一般の方が参加するようになったものの、広く市民が気軽に参加するものになっていない。
伝統的なメディアの作り手が、社長にも会社員にも家事をする主婦にも分かりやすいニュースを届けようとするばかりに、平板化された形に収めてしまう傾向がある。
とはいえ、電車に乗れば大半がスマートフォンやタブレットで、何らかの情報に触れているのを見ると、それはデバイス(装置)としてマイ・メディアの定着は明らかで、自然と触れ合う情報は「自分が好きなコンテンツ」になってくるから、知らずのうちにマイ・メディアが形成されているはずである。
国際比較で、それが「ない」とする私たちの問題は、メディアが発信するコンテンツの問題とそもそもの政治に期待していないあきらめと無関心が根本にあるのも気付かされる。
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