アメリカで生産を初めて45周年を迎えたという「キッコーマン醤油」。現在では、一般に流通する醤油のほぼ四分の一をシェアを占める大企業にも、並々ならぬ努力があったそうです。ジャーナリストの嶌信彦さんが、自身の無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』で、その企業努力と感動のエピソードを紹介しています。
地場産業から世界へ
キッコーマンがアメリカでしょうゆの現地生産を始めてから45周年を迎えたという。実は10周年の時、私は毎日新聞のワシントン特派員として働いていた縁からウィスコンシン州にあったしょうゆ工場の10周年式典を取材に行った経験がある。
キッコーマンは、いまや世界的な国際企業になったが、昔は千葉県の野田でしょうゆを作る地場産業の一企業だった。当時、しょうゆは各県の地場でそれぞれ独特の味で作っていたといい、その数は100~200種あったらしい。しかもしょうゆは日本独特の味付けでとても国際的になるとは誰も思っていなかったようだ。
ところが、50年代に入り日本が豊かになってくると、食物以外の他の製品は売上高がどんどん伸びるのに、しょうゆはさっぱりだった。確かに、いくら日本人の懐が豊かになったとしても、しょうゆをジャブジャブご飯にかけたり、味付けに使うことは少ない。
そんな時、当時の社長・茂木啓三郎、友三郎親子は、販売額を上げるには海外しかないと考え、1957年にアメリカ西海岸に販売子会社を作り、しょうゆの使い方などを宣伝しながら徐々に伸ばしていったという。各地でしょうゆを使った料理講習会を開き、ステーキにしょうゆが合うことなどを伝えると人気が出始め、遂に1971年にウィスコンシンに現地生産を行なう決断をしたのだ。
当初は工場の匂いが嫌がられたこともあったようだが、社員が工場周辺にばらばらに住み、現地に溶け込む努力をしたり、焼肉パーティーを開くなど社員が一生懸命宣伝した甲斐もあって、しょうゆのことを「キッコマン」と呼ばれるほどアメリカの家庭に浸透していった。現在、アメリカのレストランで「キッコマン」と言うと、すぐにしょうゆを持ってきてくれるほどだ。