先述したように、自民党の総理大臣として初めて憲法改正を「党是」と明言したのは、おそらく小泉純一郎氏であろう。平成13年5月21日の参議院予算委員会における発言。
小泉首相「自主憲法制定というのは自民党の党是であります。…憲法改正を言うと、右翼だとかタカ派だという、とり方が今まであった。そうではない」
それでは実際のところ、保守合同を成し遂げた中心人物たちは憲法改正にどのような思いでいたのだろうか。「自民党政治の変容」(中北浩爾著)には、「保守合同の最大の立役者は岸信介であった」と書いてある。
保守合同の4ヶ月前に発表された岸の論文の一節に以下の記述がある。
昨今における左翼勢力の進出については真剣にこれに対決する方法を講じなければならない段階に来ている。
結党時の文書「党の使命」には、現行憲法についてこう書かれている。
階級闘争は益々熾烈となりつつある。思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。
これは岸信介氏の考えそのものであろう。
米ソ冷戦下における共産主義勢力に対抗するため、米国の支援で作られた側面も否定できないのが自民党である。岸信介氏は米国の期待を一身に集めた。
米国の占領政策を否定する復古的な内容を許容してでも反共の砦としての強い保守政党を米国は望んだ。その意向を受け、イデオロギー的な分野をリードしたのは岸氏だったといえる。
しかし当時の鳩山一郎首相はどうだったか。改憲派と見られながらも、憲法改正に積極的だったとはいいがたい。鳩山家に記者として出入りしていた渡辺恒雄氏によると、当時、鳩山首相が憲法改正を演説で唱えたことはなかったという。
「鳩山一郎回顧録」には、保守合同にいたった経緯がくわしく書かれている。
左右両派の社会党だけでなく、ワンマン吉田茂が批判を浴びて選挙に敗れた自由党までもが日本民主党の鳩山内閣に対して厳しい国会対応をしてきたという当時の政治状況があった。
「これではとてもたまらない」と政界の大立者、三木武吉氏(日本民主党)は1955年4月に突然、保守の大合同が必要だと言い出し、党内に波乱を巻き起こした。岸信介氏は諸手を挙げて賛成したが、三木武夫氏らは「いまさら何で自由党と手をつなぐのだ」と反発した。鳩山首相自身は「是が非でも保守合同という気持ちは持っていなかった」という。
鳩山首相は、保守合同については三木武吉、河野一郎両氏に任せていた。三木氏は保守合同にむけて工作を進め、目をつけたのが自由党の大野伴睦氏だった。
「自由党に人多しといえども国家のためとあらば、自分の利害も考えずに、裸になってぶつかることのできる男は君をおいてほかにいない」と情ですり寄る三木氏の迫力に、直情径行の大野氏がほだされ、それまで犬猿の仲だった二人の実力者が急接近した。
こうした工作が実を結ばなければ、自由民主党が誕生したかどうか、わからない。二人はそれぞれの党内に横たわる難題、意見の違いを、ひとつひとつ解決し、11月に保守合同を実現させた。その前月、両派社会党が統一されたが、そのもたらす危機感が、自由、民主両党内の合同反対論を鎮静化させた面もあるだろう。
こうしてみると、自民党結党には、さまざまな考えがからんでおり、憲法改正が立党の目的だとか、党是であるとかいうのは、今の政権の都合に合わせた一面的な見方に過ぎない。
自民党の「綱領」に憲法改正が盛り込まれたのは結党から50年を経た2005年11月22日のことだ。これを「新綱領」と称している。
ちなみに安倍晋三氏が自民党幹事長になったのが2003年9月、内閣官房長官に就任したのが2005年10月31日である。安倍氏が新綱領作成に深く関わっていたのは言うまでもない。
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