連載終了から30年が経った今なお、不動の人気を誇る漫画作品『北斗の拳』。今回の無料メルマガ『生きる!活きる!『臨床力』』では、著者で獣医師と臨床心理士の資格を持ち大学で教鞭も執られている渡邊力生さんが、学術的な見解も絡めながら、「悲しみを背負うことで体得する強さ」について、自らが愛するケンシロウの生きざまを引き合いに解説しています。
哀しみを力に変えて
数ヶ月前から、ちびちびと、美味しいお酒をちょっとずつちょっとずつボトルから出すかのように、アマゾンプライムで『北斗の拳』を見ています。幼い頃はちょうど木曜日の夜が放送日で、剣道の稽古とかぶっていてほとんど見られなかった北斗の拳。これまでコミックは何度か読破したのですが…、アニメをしっかり見るのは今回が初めてです。ようやく100回を超え、もうすぐ最後の最後の戦いが始まります。
まぁ私は自分自身への免罪符として、ゲームも漫画も映画も、果ては子どもとの遊びであっても、いかなることも“学び”につながるよう、良いように良いように捉えることにしていますが、この北斗の拳だけは完全にここまでエンターテイメントとして視聴してしまっていました(汗)。
ただこのクライマックスにきて…、ついに北斗神拳究極奥義が登場する段となり、ようやく私の頭の中にもピンとアンテナが立ちました。奥義については知っておられる方は知っておられますね。「無想転生」です。北斗の拳を見ながらでも学びをついに手にすることができた!と自分に言い聞かせまくっているだけかもしれませんけどね…。
この無想転生…、哀しみを背負い、背負い、背負い、背負い切ったのちに到達できる領域でしか体得できない奥義であったため、ケンシロウ以前の伝承者は誰一人手にすることがなかったらしいです。全てが無の状態になりますので、自分の体も空気と化し相手の攻撃は一切当たりません。逆に無の状態から拳が繰り出される故に、感情や意図が全く読めずに確実に相手の実体を捕らえることができるのです。
いやぁ。無想というか無双ですね。無敵。
女性の方やお若い方たちにとっては「なんやそれ?」という話題かもしれませんが、時間があれば北斗の拳を熱く語り合いたいですね。
さて私がこの無想転生にぐっと引き込まれたのは、この奥義が臨床家・心の専門家としてお会いする上で究極に目指すべき姿、型であると感じたからです。
我々の目の前に来られる方は、ご自身で「哀しみ」を抱えて生きておられるという方もおられますが、少なからぬ方は“哀しみ”を抱えきれずにおられます。もっと言えば「哀しみ」から自由になりたい。
我々臨床家はその哀しみを完全に「肩代わり」することはできません。克服し解消するのか、それとも抱えたまま生きていくのか、いずれにしてもその責任を果たすのはクライエントさんご自身です。決断するのもしかりです。
ただその哀しみの「生き写し」を我々が背負うことで哀しみを共有することが可能です。また一時的に哀しみの一端を担ぐことで、クライエントさんに余裕を持っていただくことはできます。また哀しみを誰かに分かってもらえたという心の深い部分に響くような体験は、クライエントさんの心に、そして外的なものに大きな作用をもたらす可能性があります。
我々はそのお手伝いをしているにすぎませんが、哀しみを背負っていることには変わりません。
ケンシロウが戦い倒してきたライバルたちの抱えていたそれぞれの「哀しみ」すらもその血肉に変えて、トキが「哀しみを怒りに変えよ」と言ったこととは異なり、哀しみを哀しみのまま自分自身の中に内包したその姿は、我々臨床家が人の「哀しみ」と出会っていく上で非常に示唆に富んでいると思われます。
さらにはその哀しみの最終的な形として、無から生まれる拳があります。これはさしずめ、我々が繰り出す【クライエントさんへの言葉がけ】にあたるでしょう。変に構えている言葉でもなく、相手に一撃必殺的な効果を狙いに狙って言う言葉でもなく、力んで出した言葉ではなくゆるーく空気が流れるように出てくる言葉です。
「なんとかしたい!」
「自分の力で相手を変えたい!」
「相手を制圧したい!」
こういった感情が自分の中に大きく存在している限りは、自分の言葉は相手の心に届く前にガードされてしまう。そういうイメージを私はケンシロウとラオウの戦いに重ねました。
感情を一切なくすことなんて人間には不可能ですので、厳密にいえばプラスの感情もマイナスの感情もその拳には現れてこない無想転生を例に挙げることは適していないかもしれません。
ただ意図したり企んだりしたところではなく、相手の心の動きに応じて自然に自分の心が動き、その心の動きのまま言葉を繰り出すことができたら、それは相手の心に優しくすっと届くのではないか。そう解釈してみました。そう考えますと…、無想転生の喩えもあながち間違ってはいない、と感じずにおれません。
いずれにしましても、臨床家として高みを目指す限り、自他共々の「哀しみ」を自分の背中に背負い、自分の懐に抱えて生きていくことは必要条件の一つであることは間違いないでしょう。その先に、自分ではまだ見ぬ、それぞれの人の究極奥義を手にすることができるということは「臨床家の理想像」の一つであろうと思います。
まだまだ私は自分の身が引きちぎられそうな質や量の「哀しみ」を背負ってはいません。当然究極奥義体得もまだまだ先の話です。ただケンシロウが哀しみを背負ったのが強敵たちとの戦いの末であったように、我々臨床心理士であれ、獣医師であれ、自分が最も強くなれるのはやはり実戦しかありません。
それは本を読むことでも、教師に教えを請うことではありません。実際に人と会うことでしか「哀しみ」を背負うことはできないのです。競走馬がレースで走ることで強くなることとも似ているかもしれませんね。
ただ人と会うことで経験する「哀しみ」は必ずしも相手の哀しみだけとはかぎりません。クライエントさんの「哀しみの物語」を聞くことで自分自身の中にも「自分オリジナルの哀しみ」が創出されることもあるのです。もっと言えば…、我々が向き合うのは必ずしも「哀しみ」という感情だけではありません。
それはまたいずれかの機会に考えてみたいと思います。
今日は…、なかなか教訓を得られなかった北斗の拳からもようやく気づき、メルマガのネタが得られたよーという話をさせてもらいました。
それではまた。Ci vediamo!!
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