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上品、気配り、スピード感。主婦はいかにして会社を立て直したか

約30年余りの会社経営人生。仕事はただダイレクトメールを読むだけだったという78歳の女性経営者は、いかにして窮地の会社を立て直したのでしょうか。今回の無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』では著者の嶌さんが、慎み深くも猛勉強で会社を発展させた女性社長の人生を紹介しています。

40歳の主婦から女性社長になって30年 インドネシアに子会社も設立

11月上旬に78歳の女性経営者の話を聞いた。社長だった養父(叔父)の急逝で、40歳にして突如主婦から社長に就任し、多くの苦労の末、インドネシアに子会社を設立するなど国際化にも挑戦。従業員は80人ほどで、現在は国内に2工場、海外で1工場を長女と長男に任せ、自らは会長としてサポート役に徹している。現代は政府が“女性活躍時代”と声をあげるが、実際に女性が国際的な分野まで手を広げ、モノづくりの経営に携わって成功するケースは少ない。小松ばね工業の小松節子さん78どのように女性社長としてこの30年を乗り越えてきたか、紹介したい。

40歳でいきなり女性社長に

小松ばね工業は1941年に小松謙一氏がゼンマイ、板ばね、線ばねの設計製作などをはじめるため創業した企業だった。戦後はカメラ、時計関係、自動車部品、電気機器などの分野に進出しメーカー各社に販売していた。

ところが1980年に小松社長が急逝し、株を大量に譲られていた節子さんが社長に就任することになった。しかし節子さんは、それまで主婦業をしていただけで会社経営の知識はほとんどゼロ。趣味は小学校時代から続けていたバレエで、当時は約50人を抱えるバレエ教室の先生だった。

先代社長が亡くなった後、節子さんの夫が社長となったが古参幹部から辞任を迫られ、大株主だった節子さんが社長に祭りあげられた。しかし古参幹部らの狙いは、節子社長を“名ばかり社長に祭りあげて会社の実権を握ることだった。このため、社長に就任しても数年間は実質的な社長役はさせてもらえなかったという。しかし社内は内紛で業績が低迷。工場は散らかり放題で機材も汚れる一方だった。

当時は“名ばかり”社長

会社へ行っても、節子さんはやることがなく送られてくるダイレクトメールを読むだけだった。そのうち古参幹部たちは節子社長が音をあげ社長職を放り出すことを待っていることに気づき、とにかくダイレクトメールの中から良さそうな社長業を講義する経営セミナーに参加することにした。行ってみると200人位の社長が熱心に真剣に話を聞いている姿に圧倒され、社長によっては10年、20年と月1回のセミナーに参加していることを知り、自分も真面目に取り組むことを決心したという。

セミナーで社長業を猛勉強

それからは自宅で録音したセミナーの音声を家で聞き直しノートに書き起こして勉強したという。セミナーの講義を聞いて経理部長から小松ばね工業の銀行印と実印を取り返し、2年間も赤字が続いたので自ら経営計画書を作成。社内で発表する覚悟を決めた。当初は古参役員も社員も真剣に取り合おうとしなかったが、次第に社員が支持にまわるようになり古参役員たちは辞めて行った。当初は経営計画書の作成費用も認められず、見ようともしなかったので自費で作り、経営計画発表会も自分で社員に来てもらい説明した。

何せ初めてのことだったので、最初は恥ずかしい思いも感じたが、大株主である自分が責任をとらないと会社は潰れてしまうと考え、経営理念の第一にお客様第一主義に徹すると宣言。マーケットの変化をみて従来の線バネ中心から板バネに代えていくこと、会社を綺麗にして働く環境を自分達の手で変える(清掃業者に依頼しない)、月次の計算書を作りバランスシートを重視すること、お客様のところをまわり要望を聞いて改善してゆくこと──などを次々と実践してゆくと社員の顔つきも生き生きとし社内の雰囲気空気も大きく変わっていった

社員に気配り、グローバル化に対応

また、社員を大事にするため月毎に誕生会を開いたりバレンタインチョコを配るなどの心配りをした。さらにバネの需要先も自動車からカメラ、医療用など世の中の動きをみて先取りした技術開発や顧客開拓も行なった。

さらに東京の物価が高くなってきたので東北に新工場を設立、グローバル化の動きをみて日本貿易振興機構ジェトロの海外使節団に参加し、アメリカ、EU、アジアなど11カ国をまわり、結局インドネシアに新しい工場を作ることも決断する。社外のプロを3人ほど招き経営に参加してもらったこともあったが、ゴルフばかりやっていたり、現場を見ず品質管理で不手際を起こすなどのことがあり、結局辞めてもらったという。そのうちに長女と長男が入社してくれたので長女に国内の社長、長男にインドネシアを任せ落ち着いた。リーマンショック時は、売上げ利益が3割減6割減まで落ち込んだこともあったが何とか持ち直してきたという。

“名ばかり”社長からの脱皮へ

“名ばかり社長”、“いるだけ社長”から30年を経過したが、この間に経験したことは、“勉強の方法は、本を読む、講演を聴く、お客様の話を聞く”などまず他人の意見を受け止め、そして決断し、行動に移す、朝令暮改を恐れない勇気、そして何よりスピード感を欠かさないことだったと述懐する。

小松社長は2017年に中堅・中小企業のうち全国の金融機関などから推薦を受けた候補者の中から最も優秀な経営者を選ぶ日刊工業新聞主催の表彰制度で2016年度の最優秀経営者に選ばれた。またこうした活動から天皇・皇后両陛下が工場の見学に来られ園遊会にも招待されている。

小松ばね工業の作るばねは、虫めがねで覗かないと判らないほどのゴマ粒のような超精密ばねでオンリーワン技術だ。小松節子会長は40歳から約30年間にわたり第一線で社長を続け自らの努力で海外に拠点を持つ企業にまで育てた。この経歴だけを聞くと、まさにモーレツ女性社長をイメージするが、実に上品で言葉使いも丁寧な気配りのある女性社長であることに気づく。女性活躍時代といわれる今日、芯はしっかりしているが女性の慎み深さを失わない日本的女性社長ともいえる。

なお、この原稿は、16年にわたり500人の人々とあってきた毎週日曜日の午後9時半から私がホストを務めるTBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」』で収録したインタビューの一部である。

(TSR情報 2018年11月29日)

※参考まで、小松ばね工業様の製造工程の動画を共有いたします。本動画は、2016年に開始した、日本の高い技術を持つ町工場の製造過程の映像と音を気鋭のトラックメーカーがリミックスし作品化するプロジェクト「INDUSTRIAL JP」の一つで、この動画がレーベル設立のきっかけとなっています。

このプロジェクトは、以前「志の人たち」のゲストとしてお越しいただいた由紀精密様の大坪正人氏と電通総研様等で日本の中小企業の高い技術をクリエイティブの力で広めたいという思いから発足し、話題となっているものです。

小松ばね工業 × DJ TASAKA「KOMATSU BANE」

※関連参考サイト

小松ばね工業株式会社
INDUSTRIAL JP
● 嶌が以前大坪氏のことを記したコラム「─日本は戦後の第二創業に挑戦を─中小・零細企業に期待
● TBSラジオ『嶌信彦 人生百景「志の人たち」

image by: 小松ばね工業株式会社 - Home | Facebook

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ジャーナリスト。1942年生。慶応大学経済学部卒業後、毎日新聞社入社。大蔵省、日銀、財界、ワシントン特派員等を経て1987年からフリー。TBSテレビ「ブロードキャスター」「NEWS23」「朝ズバッ!」等のコメンテーター、BS-TBS「グローバル・ナビフロント」のキャスターを約15年務め、TBSラジオ「森本毅郎・スタンバイ!」に27年間出演。現在は、TBSラジオ「嶌信彦 人生百景『志の人たち』」出演。近著にウズベキスタン抑留者のナボイ劇場建設秘話を描いたノンフィクション「伝説となった日本兵捕虜-ソ連四大劇場を建てた男たち-」を角川書店より発売。著書多数。NPO「日本ニュース時事能力検定協会」理事、NPO「日本ウズベキスタン協会」 会長。先進国サミットの取材は約30回に及ぶ。

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【著者】 嶌信彦 【発行周期】 ほぼ 平日刊

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