京都見物といえば南禅寺や嵐山の天竜寺といったメジャーな観光地に目が向きがちですが、たまには郊外にも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、最寄り駅の加茂駅からも徒歩で1時間の浄瑠璃寺について、その魅力と存在感を余すところなく紹介しています。
浄瑠璃寺のヒミツ
奈良との県境の近くに木津川市加茂町という町があります。そこにひっそりと佇む古刹、浄瑠璃寺をご案内します。別名、九体の仏像を安置していることから九体寺とも呼ばれています。
この辺りは、奈良時代に聖武天皇の恭仁京が置かれた地です。寺の近くにはいたるところに磨崖仏が点在していて信仰の地だったことを物語っています。
浄瑠璃寺は平等院鳳凰堂と並んで、平安時代に広まった末法思想に強い影響を受けて創建された寺です。よって浄土式庭園と阿弥陀堂を今に残すとても貴重な場所です。
阿弥陀堂は九体阿弥陀堂と呼ばれています。九体の阿弥陀如来像を横一列に祀る横長の建物です。このような珍しいお堂は現存する唯一のものといわれ現地では、「九体寺」と呼ばれています。
浄土教の大事なお経の一つで観無量寿経というものがあります。このお経によると往生するまでには九つの段階があるとされているので、九体の阿弥陀如来像を祀ることになったそうです。
さて、浄瑠璃寺が今でも唯一の九体寺として現存しているヒミツがあります。
かつての京都の多くの寺院はだいたい有力貴族と結びついて造られた歴史があります。一方、浄瑠璃寺は地元の豪族や民衆の信仰による寄付によって造られ支えられてきた歴史があります。日本で唯一、九体阿弥陀堂を今に伝えることになったのはその辺りにヒミツがあります。つまり政治的な権威や権力とは距離を置いて地元の豪族をパトロンとしていたからこそ、兵火を免れたることが出来たのです。この点については平等院などとは正反対の性質を持っています。平等院は藤原氏がまさに栄華を極めた時に建てられたわけですからね。
浄瑠璃寺はこの地の豪族、阿智山太夫重頼(あちやまだゆうしげより)によって、1047年に創建されました。当時は西小田原寺と呼ばれました。
平等院は藤原頼通が宇治殿を寺院に改め、寺号を「平等院」としたのが1052年ですのでほぼ同時期に建てられています。
浄瑠璃寺の創建当時の本尊は薬師如来像で、現在三重塔の中に祀られています。
さて、当時は末法の世が近づいていた時代です。なので、現世利益の信仰の対象である薬師如来から、来世での極楽往生をかなえる九体阿弥陀如来に本尊が変わったと伝えられています。
中央の池は荘園への灌漑用水池で、観賞用の庭園ではなく農民たちへ奉仕の目的を持っていたようです。
感心させられるのは、九体阿弥陀如来像の中尊から見て、春分、秋分の日の太陽が三重塔の真上に登るというのです。反対に三重塔から見て、春分の日、秋分の日に、太陽が中尊の方位に沈むようにお堂が建てられているのです。また、九体阿弥陀如来像の南端の仏像から見て夏至の日の太陽が、反対に北端の仏像から見て冬至の日の太陽が三重塔から昇るように建てられています。阿弥陀堂の正面の幅は約25メートルあります。この長さは季節によって変化する太陽の通り道によって割り出されたものと考えられています。
かつて灌漑用水池として庭園の池が使われていたことと共に、農耕に必要な暦も民衆に提供していたということなのでしょう。昔の人の生活の知恵を垣間見ることが出来るとても貴重なお寺です。
有名な観光寺院の派手さはありませんが、それらと対照的な存在感と魅力を今に伝えています。市内中心部からのアクセスはあまり良くないですが、足を運ぶ価値はあります。寺社巡りに違った楽しみを感じることと思います。
京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。
image by: 京都フリー写真素材