不眠、覚醒、夢、せん妄。その境界は思っている以上に曖昧で、人の意識は驚くほど簡単に裏切られます。今回のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』では、生物学者でCX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの池田教授が、自身の体験を通して、不眠症の苦しみと、眠りと覚醒のあいだに潜む人間の意識の不確かさについて考えていきます。
不眠症について
眠るのが全く苦でなくよく眠れる人の中には、眠っている時間は人生の無駄時間のように感じられる人もいないではない。時々出演している「ホンマでっか!?TV」のMCである明石家さんまは、睡眠時間は3時間半で、それ以上寝るのは時間の無駄と言っていたが、不眠症の人にとっては寝ている時間は至福の時で、人生の無駄からははるかに遠い。
私は、つい最近まで不眠の人の苦しみがわからなかった。ベッドに入ってしばらくすれば簡単に睡眠に落ちてしまので、不眠症の人がよく言う、まんじりともしないで夜が明けてしまった、という経験は皆無であった。前立腺肥大症のため、割合頻繁に目が覚めてトイレに立つことが多いのだけれども、ベッドに戻ってくればすぐに寝てしまうので、何の問題もなかった。
ところが少し前に、初めて眠れない苦しみというのを経験した。九州で講演があって、羽田発の飛行機が朝早く、5時に起きて出かける用意をしないと間に合わない。今までは羽田空港で前泊をするのが普通だったのだが、何せ宿泊代が高すぎて、バカバカしくて泊まる気がしない。現地前泊という手もあったのだけれども、この時はなんか乗り気がしなくて、朝起きて、電車で羽田空港まで行こうと思ったのだ。
さんまさんは極端なショートスリーパーで、短時間睡眠でも具合が悪くならないと言っていたが、私は8時間ほど睡眠時間を確保しないとすっきりしないロングスリーパーなので、朝の5時に起きるためには夜の9時に寝なければならない。いつもは午前の1時頃まで起きているので、さすがに9時には眠れないだろうと思って、10時にベッドに入ったのだ。ところが、全く眠れない。普段の夜10時はまだ交感神経が優位に働いている時間帯なので、眠くならないのだ。
じっと目を閉じていれば、そのうち眠れるだろうと思っていたのだが、これは簡単には眠れそうにないかもしれないと思った途端に、脳が不眠モードに入ったようで、目を閉じてじっとしていればいるほど、目が冴えて眠れそうもない。時間はどんどん過ぎて、11時になっても12時になっても、眠れない。横になって目を瞑っているのが苦しくなってくる。
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これはリセットしなければと思って起き出して、椅子に座って落ち着いてウイスキーのお湯割りを飲む。時計を見れば午前1時である。こんなことならば、最初から午前1時に寝ればよかったと後悔する。ウイスキーのお湯割りを追加でもう1杯飲んで、これで眠れるだろうとベッドに戻ったのだが、これがやっぱり眠れないのだ。しかし、もうしょうがないので、ベッドで目を瞑っていたが、眠れたのか眠れなかったのかよくわからない状態で、5時に起きて講演に行ったのだ。まあひどい目に遭ったわけだが、眠れない人の苦しみが身にしみてわかった。不眠の癖がついたのか、それから時々眠れない夜が訪れるようになった。
眠れない時は、どうせ眠れないみたいだから、スッと眠れる時と、眠れない時は何が違うのだろうと、つらつら考えてみる。眠れる時は、頭の中が空っぽでほとんど何も考えていない時と、睡眠以外のよしなしごと(例えば、次に書きたい本の漠然とした構想とか、採ったことがない珍品のカミキリムシのこととか、エロいこととか)を考えている時だ。しばらく経つと、知らぬ間に眠りに落ちて、次に目覚めた時にああ眠っていたんだと気づく。眠れないのは、眠ることを考えている時で、いつになったら眠りに落ちるのだろうとか、これはどうも不眠モードに入ったらしいとか、そういったことが頭の中を回り始めると、もういけない。まずしばらくは眠れない。
少し前までは覚醒から眠りへの移行は徐々に起こると考えられていたが、最近の研究では、まるでスイッチを切り替えるように急激に眠りに落ちると言われている。私自身の体験でも、意識のある状態からいつ眠ったか(無意識の状態になったか)はわかった験しがない。眠る直前までは意識があり、直後は意識がないので、今眠ったと意識することは、無意識から意識を振り返ることと同義なので、これが不可能だということはよくわかる。一方、目覚めの瞬間は、意識から無意識を振り返っているので、これは簡単にわかる。
若い時は毎日のように、眠る前に金縛りにあっていた。金縛りはレム睡眠時に起きて、体は眠っている状態だが、意識はあるので、頭で体を動かそうと思っても動かないという実に気持ちの悪いことが起きる。奈落の底に落ちていくような感じがしたり、あるいは、体がすごい勢いで膨張するような感じになったりする。覚醒から金縛りになった瞬間は、頭は目覚めているので、今金縛りに堕ちたということがわかる。極めてリアルな夢を見ることもあり、人によってはこの時に見た夢を現実だと思い込んでしまう。いわゆるせん妄である。
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かつて、乳がんの手術を受けた患者が、様子を見に来た主治医からセクハラを受けたと訴えて、裁判になったことがある。患者は4人部屋にいて、周囲の状況から患者が主張するようなセクハラをすることは不可能だったのだが、患者はリアルだと信じ込んでいるため、その主張は信憑性を帯び、検察官も裁判官も騙されて、医師は有罪の判決を受けた。最終的には最高裁で無罪になったが、検察官や裁判官は術後せん妄に関しては素人なので、専門家の意見を広く聞けば、こんな悲惨なことにはならなかったと思う。それにしても、人生のかなりの年数を棒に振った医師は気の毒だったというほかはない。
かつてアメリカで、眠っている間に宇宙人に連れ去られて、宇宙船でエッチなことをされて、気が付けば元のベッドに戻されていたという経験を話す人が沢山いて、マスコミが取り上げこともあり、覚えている方がいるかもしれないけれども、これもせん妄である。レム睡眠は覚醒と睡眠の中間領域で、レム睡眠が長く、夢をよく見る人では、睡眠と覚醒が連続的と感じられることもあると思う。
かつての私のように眠れないという経験がない人には不眠の苦しみはわからないと思う。一晩中目が冴えて、なんで眠れないんだろうという経験をすれば、不眠がいかに苦しいかが理解できる。致死性家族性不眠症という稀な病気がある。プリオン病の1種で、最初、イタリアのミラノ周辺で見つかった。通常は遺伝病だが、ーーー(『池田清彦のやせ我慢日記』2025年12月12日号より一部抜粋。続きはご登録の上お楽しみください、初月無料です)
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