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福生病院「透析中止報道」に違和感。現役医師が抱いた10の疑問

日本中に大きな衝撃を与えた、東京・福生市の公立福生病院「人工透析中止」による40代女性死亡の報道。ネット上でも賛否両論を巻き起こしていますが、この一連の報道について多くの疑問を抱いたと語るのは、メルマガ『長尾和宏の「痛くない死に方」』発行者で、これまで2000人以上の最期を看取った現役医師にして日本尊厳死協会副理事でもある長尾和宏先生。病院側を責める報道が多いなか、長尾先生は「10の疑問」を挙げる形で、福生病院の対応について、そして「医療業界のタブー」についても持論を展開しています。

福生病院「透析中止報道」への10の疑問――「痛い透析医」

3月7日に第一報の出た公立福生病院(東京都福生市)の、人工透析治療中止に関する一連の報道を読みながら、私の中でいくつか疑問が膨らんできた。 

  • 医者から「中止」を勧めたのか? 患者の意向を受けて同意したのか?
  • 亡くなるまでに、本人・家族と医師の間でどんな話し合いがあったのか?
  • そもそも福生病院の医者は悪くない……

この原稿を書いているのは3月14日である。この1週間、毎日のように各紙、テレビ各局のワイドショーでもこの問題を取り上げている。

それを受けて、Twitterでも、多くの人が反応を示しているが、特に市民が大きな反応を示していたのはこの記事だったように思う。

「透析中止の女性、死の前日に『撤回したいな』 SOSか、夫にスマホでメールも」

この見出しが躍った記事を、死の前日に透析を再開しなかったから医師が患者を死なせた悪い医者だ、恐ろしい病院だ……と受け止めた人も少なくはないだろう。

また、3月10日の毎日新聞の記事によれば、毎日新聞の取材に対して福生病院の松山健院長(当時・副院長)はこのようにコメントをしている。

(松山院長)「いろいろな選択肢を(女性に)与え、本人が(透析治療の中止を)選んだうえで意思を複数回確認しており、適正な医療だ」

このコメントを受けて、透析中止という選択肢を(無論、それは死に直結するという説明とともに)患者に提示することは、「医師の仕事ではない」「酷である」と論じている人も何人かいるようだが、果たして本当にそうだろうか?

「本人に選択肢を与えない」医療を未だ支持している識者がいることに、むしろ驚く。

各新聞をはじめ多くのメディアは、この何十年も医療パターナリズム(患者の最善の利益の決定の権利と責任は医師側にあって、 医師は専門的判断を行なうべきで患者側には決定権がない、という旧態依然とした考え方。医療父権主義ともいう)を多くの事例を取り上げて批判してきたはずであり、なぜ平成が終わろうとしている今、「患者に選択肢を与えるな」という考え方が復活しようとしているのか、不思議にさえ感じた。

しかし、この院長の考えが倫理的に正しいのか、間違っているのかは置いておいて、患者さんのご家族(今回は死亡した女性の夫)に大きな後悔が残っているのは、記事を読む限り事実であり、ここを無視するわけにはいかない。

私は、2年ほど前に『痛い在宅医』という本を出した。

長尾和宏・著『痛い在宅医』(ブックマン社)

私の本を読んだある女性が、末期がんの父親の在宅看取りを選択したのだが、まったくうまくいかなくて、最期に父親を苦しませてしまった。長尾の本さえ読まなかったら、在宅看取りという選択肢さえ知らずに、こんなことにならずに済んだのに、どうしてくれるのだ! という手紙を頂いたのがきっかけで、この女性と対話をまとめたものである。

医療者が絶対的に悪いわけではない。家族もしっかりと患者本人を支え見守った。しかし大切な人を見送った経緯に対し、家族は強く後悔し、医療者に怒りをぶつけることは、ままある――「なぜこんなことになったの?」と。

日本語の「痛い」、には実にいろいろなニュアンスがある。

一生懸命やっているはずなのに、空回りをしてしまう人のことも「痛い」と表現することもある。

この福生病院の透析医は、悪くはないけれども、「痛い透析医」だったのかもしれない。なぜ痛いのか? というわけで、この1週間の報道を鑑みながら私の中に沸き上がった疑問を10個書きだしてみる。

1 医師が透析中止を「勧めた」のか?

「患者意思の尊重」は医療の大原則である。そして選択肢の提示は医師の義務である。透析医側から透析の中止を勧めることはないと思う。患者さんから「もうやめたい」と訴えられた時に話し合いの結果、「同意」に至ることはある。

しかし、選択肢の提示=勧めるではない

選択肢を提示するのはあくまでインフォームドコンセントの一環であろう。「勧めた」のと「同意した、患者の希望を尊重した」は意味が違う。

また「同意書」や「確認書」に患者さんが一旦サインをしても、決してそれがすべてではない。いつでも撤回できることが大原則だ。

人間の気持ちは揺れ動くものなので常に寄り添い続けることが医療の使命である。文書に署名しても気持ちが変わったら、その都度、対話を繰り返すものだ。松山院長は先のコメントで「複数回確認し」たと述べているが、その実情はどうだったのか。事務的ではなかったか? 誘導的ではなかったか? おざなりではなかったか? 松山院長は、その現場に立ち会ったうえで、このコメントを出しておられるのだろか? 

2 40代女性は、果たして本当に終末期(人生の最終段階)だったか?

報道によれば、この女性は、「シャントが使えなくなったら透析はやめようと思っていた」と、透析中止の意思確認書に署名している。(毎日新聞3月7日記事)シャントとは、透析治療のために腕に作る血管の分路のことだ。シャントが潰れたため、普段通っているクリニックの紹介状をもって、福生病院を女性が訪れたのは2018年8月9日のこと。そして亡くなったのは、8月16日である。

 福生病院は、このとき女性に二つの選択肢を提示している。

  1. 首周辺にカテーテルを入れて透析治療を続ける。
  2. 透析治療を中止する。

そして女性は、2.を選択したのだ。

同じく毎日新聞の3月7日の記事では、福生病院の外科医(名前は不明)の以下のようなコメントを掲載している。

(女性)本人の意思確認はできていて、(医療は)適正に行われた。(女性を含めて)透析をしている人は終末期」だ。治る可能性があるのに努力しないのは問題だが、治らないのが前提。本人が利害をきちんと理解しているなら(透析治療の中止は)医療の一環だ

まず基本的なこととして、「シャントが詰まった=終末期ではないし、この外科医が言っている「透析している人は終末期だ」という発言は、終末期医療に日々かかわっている私からすると、甚だ違和感がある。そんなわけがない。

透析患者さんの終末期とは、全身状態が極めて悪く死期が近い、医学的には多臓器不全と呼ばれる病態であろう。

だからこの40代女性の場合、シャントの閉塞とは関係なく本当に終末期であったかどうかを知りたい。

もし終末期と判断されたなら、患者さんの意思を尊重して家族と何度か話し合いの場を持ち、透析を中止することは何ら問題はない。

また、高度の認知症などでもはや意思疎通ができない高齢者においても家族や知人などの代理人の意思を尊重して非導入や中止となる場合はある。

患者さんは40代と若かったが、余病や全身状態はどうだったのか

もしまだ終末期ではなかったと検証されたなら、そこで初めて議論の対象となるのかもしれない。しかしそもそも「終末期」や「人生の最終段階」という言葉はあまりにも漠然としすぎている。

明確な基準が無い(作れない)ので最終的な判断は現場の医師と患者・家族との話し合いに任されている。倫理委員会で話し合う病院もあるが、患者抜きで第三者が決めていいものか。そもそも忙しい医療現場で非導入や中止の度に開く必要があるのか疑問だ。

在宅で看取るケースもあるが在宅現場には倫理委員会などない。在宅では非導入や中止の希望が出ればケアマネがケア会議に多職種を招集する。ご自宅で本人と家族の意向に耳を傾け医師を含む多職種で複数回、話し合ってから決めている。うつ病などによる自殺願望(希死念慮)ではないことを何度も確認する。

直接関わっている多職種との対話で決めるほうが倫理委員会よりよいと思う。非導入ないし中止による最期は、自然死平穏死尊厳死と呼ばれる。

その多くは穏やかな最期である。

病院においても同様にみんなで話し合うことが大切で、倫理委員会は必須ではない。もしそんな時間とエネルギーがあるならば患者さんとの対話に費やすべきだ。

またそもそも「透析しなければ死に至る状態」であること自体が終末期だ、と考える人もいるようだ。またそもそも人工透析は延命治療である。そして年齢に関わらずいくつもの病気が重なりあうと、たとえ40代であっても、あるいは10代であっても終末期と判断される場合がある。

3 人生会議(ACP)は、どのように行われたのか?

厚生労働省によって、昨年11月に「人生会議」という愛称が決まったACP(アドバンスケアプラニング)は、何回行われたのだろうか

もし透析を中止したなら、2日後、3日後、4日後あたりの、本来の透析日にも二度目、三度目の話し合い(人生会議)があったはずだ。中止=死を待つことだから、私の場合は本人意思を尊重し透析を中止した人は、毎日医師や看護師が訪問して、緩和ケアと並行して考えが変わらないか繰り返し確認する。また中止ではなく、透析導入を拒否して在宅看取りを希望される場合も同様である。要は人生会議が何回行われたか、それはどんな内容だったのかを知りたい。

ただし、今回のケースの場合、女性の死の前日に夫は急な胃病のために同じく福生病院で緊急手術を受けている。夫が麻酔から覚めたときにはもう、女性は亡くなっていた。そのため、夫を交えての人生会議が不可能だったということも考えられる。

4 透析中止後、死に向かう過程を本人と家族にどのくらい説明したか?

中止後にどんな苦痛が予想されるのか、死に向かう過程の説明はなされたか。亡くなるまでの対応方法を説明されたのか。死の前日に夫に送ったメール画像がそのまま掲載されているが、もはや意識レベルが低下したせん妄状態に陥れば「苦しい助けて何とかして!」と訴えることがある。あるいは拙書『痛い在宅医』で描いたように「死の壁」の最中に書いた文章かもしれない。

その訴えは「再開」というよりも「逃れたい」という緩和ケアの渇望のように思えた。私の場合は、予想される「死の壁」に対してモルヒネや安定剤の座薬で備えているが、このケースでは実際、どうだったのか。なによりも透析中止後の緩和ケアが大切である。それが下手だとご家族には後悔が残る。すべての透析患者さんが緩和ケアの対象であることは当然である。

また死亡前日の本人・家族からの透析再開の要請にどう対応すべきだったのか。

同紙3月7日の記事には、こんな記述がある。

夫によると、病室で女性は「(透析中止を)撤回したいな」と生きる意欲を見せた。「私からも外科医に頼んでみよう」。そう思って帰宅しようとしたところ腹部に痛みが走った。ストレスで胃に穴が開き、炎症を起こしていた。外科医に「透析できるようにしてください」と頼み、同じ病院で胃潰瘍の手術を受けた。翌16日、麻酔からさめると女性は既に冷たくなっていた

どんな時でも患者さんの申し出に対し自分の意見を押し付けるのではなく丁寧に向き合うことが医師の使命だ。

しかし死亡前日に透析再開の希望があっても全身状態が極めて不良で透析を再開したくても、もはや透析ができない状態であった可能性が高い

もしそうならその旨を丁寧に説明するしかないのだが、それがなされたのか。それとも、夫の急病により、したくてもできなかったのか。

報道では、女性の死の前日の対応を問題視しているようだが、その手前の、中止後数日間の対応こそが重要である。

5 腎移植や腹膜透析という選択肢は?

40代という年齢を考えると、「腎移植という選択肢は示されたのだろうか。

同上の夫の手記には、「腎臓移植も勧められたのですが、移植した腎臓がダメになる可能性があると聞き、その道はあきらめました」という記述がある。

もし血管炎という合併症があればシャントを作成できないこともある。またシャントが詰まったなら、頸動脈からや在宅での腹膜透析という選択肢もある。つまり代替方法の検討状況がどうだったのかも知りたい。人工透析に関する正しい市民啓発はいまだ不十分である。

もし透析を中止したいという希望を聞いたら「なぜそう思うのか」、「ほかにこんな方法もあるけれど」という対話を重ねるべきだ。

血液透析がかなり患者さんのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を大幅に低下させることに関しては欧米から多くの論文が出ている。

私も外来と在宅で常に数人の透析患者さんを診ているが、「しんどい」とか「もうやめたい」と訴える人が少なくない。そもそも透析は、延命とQOLの天秤のなかで考えるべき医療だ。また非導入や中止の後こそより丁寧な対応が必要である。

6 透析を中止したら死ぬのは当たり前なのに…

また、今回の報道の仕方、特に、「透析中止 患者死亡」とか「20人非導入 全員死亡」という新聞の見出しに違和感を覚えた。いささかミスリードではないか? 透析治療は延命治療なので、中止すれば100%死ぬ。また導入しなければ100%死ぬ(はずだ)。当たり前である。もし死ななかったら、「不必要な透析だった」ことになり、そちらのほうが問題である。だから「重大事故が起きて全員死亡!」のような印象を受ける見出しは理解に苦しむ。もはや「」=、という図式で医者を叩く時代ではないだろう。

ニュースサイトでのクリック数を稼ぎたいがための印象操作なのか、それとも単に記者の知識が足りなかったのか(余談であるが、電子版が普及されるようになってから、新聞の見出しが、扇情的になっている気がするのは私だけか)。

私自身も在宅医療で非導入と中止を数例経験している。本人の意思を尊重して大切な人の旅立ちを見守って頂いたご遺族は今、どんな想いで今回の報道に接しているのか。そう思うと胸が痛い(だからこの原稿を書いている)。

ご遺族の心中が心配でならない。非導入や中止=悪、という論調の報道を見て「自分の判断は間違っていたのか」と悔い悩んでいないか心配でならない。今、私はそんなご遺族に声を大にしてこう伝えたい

「皆様の大切な人の願いを尊重した判断は決して間違っていません。勇気が要る尊い行為です。故人は天国からありがとうと言っているはず。どうか落ち込まないで」と。

7 「透析医が透析を中止する」という意味

「透析医が透析を中止する」という意味を想像して噛みしめてほしい。そもそも透析医療機関は透析だけで経営が成り立っている。だから透析を中止すれば、患者さんがいなくなり経営には圧倒的に不利だ。

喩えが不適切だとお叱りを受けるかもしれないが、わかりやすいのであえて書くが、ラーメン屋さんがお客さんに「ラーメンは体に悪いから、食べないほうがいいですよ」と言うようなものだ。そんなこと(中止)を言うラーメン屋(透析医)を私は知らない。

だから「もう私は死期が近いはずなのに、いつまで透析を続けるのか?」と思っている患者さんにも、経営のために死亡直前まで続けているのが多くの透析現場の実態だ。

もし嘘だと想うなら身近な透析関係者にそっと聞いてみて欲しい。超高齢で種々の合併症を抱え衰弱した要介護5の寝たきりの認知症の人にも続けている。自力で部屋の鍵を開けない一人暮らしの人の窓ガラスを叩き割って部屋に入りストレッチャーに乗せて透析に連れ出している姿を見たことがある。なんとしても死ぬまで続ける日本の透析医療。腎不全=透析導入が当たり前とされ、非導入という選択肢が無い日本の透析医療。そんな透析医にとっての「透析中止」とはいわば自分で自分の首を絞める行為であり、業界内ではタブーとされてきた。

福生病院での非導入や中止は医師の利益であるはずはなく、あくまで患者さんの意思を尊重し人間の尊厳を守るための行動だ。ただし医師が医療経済の問題を患者さんにつき付けることはあり得ない。あくまで人間の尊厳と医療経済は切り離して考えないといけない。

8 透析の「非導入」と「中止」は違う

最初は「中止」の報道であったが、次に「非導入」の報道に移っている。福生病院では過去4年間に透析適応の149人のうち20人の非導入例と5人の中止例があったという。残りの129人は透析導入されている。非導入:導入=1:6で、非導入率は約13%となる。また中止率は約4%と算出される。つまり言い換えれば、導入率が87%完遂率(死ぬまで透析をやる人の割合)が96%という福生病院の数字をどう評価するのかではないのか。そして他の透析医療機関は果たしていったいどんな数字なのか。こうした比率で論じるべきではないか。ちなみに私は「非導入」と「中止」は同等であると考えるが、非導入よりも中止により強い抵抗を感じる人が多いようだ。

あるいは人工透析を人工栄養に言い換えると、「胃ろう」の対象になる患者さんが149人いたが胃ろうをしなかった人が20人で残り129人には胃ろうを造設したという話だ。またCOPDの患者さんなら、人工呼吸器の適応があった患者さんが149人いて20人の患者さんは人工呼吸器をつけず、129人の患者さんは気管内挿管と人工呼吸器をつけたという話になる。老衰への胃ろうやCOPDへの人工呼吸器もこのような視点で論じるべきと考える。

というのも日進月歩の医療において選択肢は多様化する一方だ。そのなかで患者・家族の様々な価値観を尊重し、生命倫理を重んじるのが納得・満足医療である。金子みすずさんではないが「みんな違っていい」じゃないか。80代の慢性腎不全で透析導入を拒否され自宅で看取った人がいた。90代の要介護5が多臓器不全になり本人の申し出を受けて家族とも話し合った結果、中止したこともあった。そんな意思表示(もし書面に書いたならリビングウイルと呼ぶ)をした患者さんの想いは在宅現場においては最大限に尊重している。多くの医療現場ではすでに非導入例も中止例も少なからず経験しているはずだ。決して福生病院だけの問題ではない

9 欧米では透析の非導入や中止は日常

欧米では高齢者や認知症の人は医療経済やQOLの観点から透析の非導入や中止は日常的だ。年々増えている。そもそも本人意思(リビングウイル)や家族意思は法律で担保されている。だから非導入や中止は当たり前のこととして社会に受けとめられている。むしろ日本のように「本人の意思やQOLを無視して死ぬ日まで透析を続けている」実情のほうがずっと問題ではないのか。

世界的な視野からは、導入率や完遂率が9割(あくまで福生病院の数字だが)という数字こそがまさに異次元だと思う。行政は福生病院を調べる暇があるのなら、全国の透析医療機関の導入率や完遂率の実態調査をすべきではないか。その結果をベースにしてこの議論をすべきだ。

透析は延命治療である。導入も継続も、非導入も中止も再開も、土台は同じ。つまり患者・家族と医療者が、何度も話し合いをしながら当事者が透析に納得・満足していることがなによりも大切である。医学会のガイドラインも大切だろうが、年齢、併存疾患、全身状態、認知機能だけでなく本人の死生観や家族の意向などを考慮すると画一的な線引きをするのは決して容易ではない。私たち医療者も毎日思い切り悩む。そもそも「死が差し迫っている」かどうかの具体的基準など造れない。だからこそ2018年「みんなで対話を重ねる」というプロセスを重視した意思決定支援(人生会議)が国策となったわけだ。福生病院でもそれを行ったうえでの結果ではないのか。

10 「痛い透析医」!?

ここまでいろいろ書き出したが、つまるところ、福生病院内で人生会議をどんな風にやったのかが、本来の論点ではないのか。しかしメデイアはなぜここで人生会議という文字を誰ひとり書かないのか不思議でならない。それは私には、是々非々で国策とした「人生会議」の限界を物語っている気がする。本来は人生会議の意義(この40代女性のケースでは上手くいかなかったようだが)として論ずるべきだ。

人の気持ちは常に揺れ動くもの。それでいい。

しかしその都度、本人と家族の意向に寄り添い丁寧な対話を重ねるのが日本型の終末期医療のカタチだ。今、夫が「後悔している」と新聞に打ち明けるのであればこの患者さんの人生会議は失敗だったことになろう。

そもそも人生会議が患者・家族に有効である確率は6~7割で決して万能な方策でない。医師と患者の意思疎通はお互いが一生懸命にやっても常に100点満点にはならない。精いっぱい努力しても結果が良くないことがあるのが医療だ。つまり40代のこの患者さんにとって、主治医は痛い透析医だっただけではないのか。先述した、「痛い」の意味にもう一つ付け加えるなら、患者さんへの想いが強すぎて周囲から独断的と言われかねない、という意味の「痛さ」である。

毎日新聞3月13日の記事には以下のような記述がある。

外科医は、透析治療をやめると心臓や肺に水がたまり、「苦しくなってミゼラブル(悲惨)で、見ているこちらも大変。透析の離脱(中止)はしてほしくない」と話す一方、「『透析したくない』というのは立派な主張。患者にとってメリットだという信念で、適正な選択肢を示している」と話している。

私はこの、外科医の「ミゼラブルだ」とか「自信がある」という言葉が引っ掛かった。私は主観の押し付けをしないよう自戒している。痛い医者との人生会議がうまくいかなければ、残されたご家族の心も「痛く」なる。

だから行政や日本透析医学会や日本医師会にはどうか福生病院の医師たちを責めるだけで終わりにしないでほしい。

患者さんのことを想い一生懸命に行動したが、ある患者さんへの対応は結果的に上手くいかなかった。福生病院の医師は「透析医学会のガイドラインが厳しすぎる」と言っているが、私も同感だ。抽象的なので現場では使えない。そもそも「維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」があるだけで、終末期ガイドラインをまだ出せていない。学会内部で意見がまとまらず「日和った」まま漫然と現状に甘んじている、という情報提供も頂いた。そんな姿勢が極めて特異な日本の透析実態の根っこにある。

付け加えれば、日本の透析導入時年齢の平均は約70歳だ。75歳以上が40%で、80歳以上が25%である。現在の日本の透析は大半が後期高齢者への延命医療なのだ。

また透析医学会は「非導入は想定外」というコメントを発しているが、これこそがまさに現場からの乖離を象徴している言葉だ。透析を「はじめたくない」とか「もうやめたい」という患者さんの声にちゃんと向き合えていない。人間の尊厳よりも医業経営を優先なのか。マスコミや行政は叩く相手を間違えているように思えてならない。

だから今回の報道をきっかけに「本人意思を尊重した非導入や中止」「透析のやめどき」について、医学会任せではなく、国民的議論を始めるべきだ。議論の核心はまさに「本人意思の忖度」の具体的方法である。

透析のやめどき」という切実な問題に初めて光が当たった出来事だったといえよう。東海大学病院事件にせよ射水市民病院事件にせよ、患者・家族の意思を尊重しようとした医師が悪者になった。しかしそれがきっかけで、終末期議論が少し前進してきたのが日本の終末期議論の歴史だ。だからせっかくの透析議論を、浅いものに終わらせたくはない。

最後に旅立たれた患者さんのご冥福をお祈り申し上げます。

image by: Googleストリートビュー

長尾和宏この著者の記事一覧

町医者、「長尾クリニック」名誉院長。1958年香川県生まれ。高校時代に実の父親が自死をしたことをきっかけに医者を目指すことを決意し、苦学して東京医科大学に入学。学生時代に無医地区活動に邁進したことから、地域医療に目覚める。1984年、大阪大学第二内科入局。1995年、尼崎に「長尾クリニック」を開業。町医者という名前に誇りを持ち、外来と在宅医療に邁進。『平穏死10の条件』『痛くない死に方』等ベストセラー多数。

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