今年7月に世界文化遺産に指定されることが決定的となった、百舌鳥・古市古墳群。大阪初の登録資産になるとあって地元では大きな盛り上がりを見せていますが、「浮かれているだけでいいのだろうか」とするのは、元全国紙社会部記者の新 恭さん。新さんは自身のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』にその理由を記しています。
世界遺産となる天皇陵の古墳が公開されない理由
ユネスコの諮問機関「イコモス」は、歴史的建造物や遺跡などの保存に関わる専門家たちの国際的なNGOだ。
現地調査を経てイコモスが「勧告」すると、ユネスコの世界遺産委員会で登録が決定される可能性は格段に高まる。
大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」は、2007年の応募から12年を経て、ようやくそのお墨付きをもらった。この7月には世界文化遺産に指定される見通しだ。
堺市の「百舌鳥エリア」に仁徳天皇陵など23基、羽曳野市と藤井寺市にまたがる「古市エリア」に応神天皇陵など26基、合わせて49基。これら古墳群の歴史的価値については今さら言うまでもない。教科書でもおなじみだ。
大阪府と三市の提案書には、「日本における国家形成過程を示すモニュメント…古墳文化という、独特な墳墓の築造に膨大なエネルギーを集中した他に類をみない特異な文化がかつて日本に存在したことを物語る遺産として、人類共通の普遍的な価値をもつ」とある。視察に訪れたイコモスのメンバーはこれを適切と認め、ユネスコに世界遺産登録を勧告した。
大阪に「世界遺産ブランド」をと長年にわたり運動してきた自治体、観光業の関係者、政治家たちは歓喜に沸いているにちがいない。しかし、浮かれているだけでいいのだろうか。
世界遺産ともなると、大勢の観光客が押し寄せる。巨大古墳はどんなものなのか。古代を想い胸をときめかせてやってくる人々が、がっかりして帰ることになりかねないのが現状である。
仁徳天皇陵、履中天皇陵など天皇の墓とされる古墳については、文化財保護法の適用外とされ、宮内庁によって、古墳への立ち入りや、公開、学術調査が厳しく制限されているからだ。
仁徳天皇陵とされてきた日本最大の前方後円墳に代表される数々の古墳は、江戸時代まで、庶民に身近な存在だった。
たとえば、農業には墳丘の林が燃料や肥料の供給源であり、古墳を取り巻く池は農業用水に利用された。大きな古墳の森林は人々のピクニックの場で、桜の季節には酒盛りも行われていたという。
今や宮内庁の厳しい管理のもと、われわれは古墳の敷地内に入ることを許されない。仁徳天皇陵参拝者用駐車場から玉砂利の敷き詰められた遠くの鳥居とその奥に広がる森林をながめるのが、せいぜいのところだ。
ネット上には、仁徳天皇陵についての、こんなコメントがあふれる。
「仁徳天皇陵に来たけど、大きすぎて横から見ても全然分からない」
「民家と狭い道はさんで隣り合ってるし、中には入れない」
「近くにいるとただの森。ヘリコプターにでも乗らないと…」
冷静に事実を見ておくことが必要である。天皇の墓とされる巨大古墳には謎が多い。墓を守る宮内庁と文化財としての調査を望む研究者。その立場の違いが、謎の解明を阻んできた。
一方、世界遺産のブランド価値にも、低下が懸念されている。2018年の時点で、世界遺産登録数は、文化遺産、自然遺産、複合遺産、危機遺産、全てを合わせて1,092件にものぼっている。
1980年代に運営のまずさで存亡の危機に陥ったユネスコを救ったのはこの事業だった。もちろん、最初のうちは、保存、継承に重点が置かれていた。ところが、90年代以降、様相は激変する。
観光を重視する国々から登録申請が増え始め、いまでは周知のとおり、各国の観光開発の目玉として組み込まれている。
さすがに危機感を覚えたユネスコは登録数を制限しているが、世界遺産がユネスコ最大の事業になり、世界遺産コンサルタントとして食べている関係者も多いことから、登録数が今後も際限なく増えていくのは避けられそうもない。
こうなると、世界遺産のなかで希少価値のより高いものを“スーパー世界遺産”として区別すべきだという議論が出てくるのも、もっともな話だ。
世界遺産は、選択と推薦を各国政府にゆだねている。各国は候補地を選定して「暫定一覧表」をつくり、年1件、ユネスコに推薦し登録を申請する。
TBS系列で「世界遺産」という番組が平成8年から放映されたことも手伝って、「町おこし」に世界遺産登録を利用しようとする動きが日本でも各地域に生まれた。地元に橋や道路を引っ張ってくるのと同じ理屈で、政治家が暗躍するようになった。
平成16年に世界遺産登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」については、観光振興議員連盟会長をつとめた和歌山出身の二階俊博氏(現・自民党幹事長)が、運輸族のドンの面子にかけて実現に執念を燃やしていたといわれる。もっとも、二階氏がどうであれ、文句なしの候補地ではあった。
さて、予想通り百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されるとして、今のままで良いのかどうか、よくよく考えないといけない。まず変わるべきは、宮内庁ではないだろうか。
世界遺産の理念は観光振興ではない。人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つ建築、遺跡、自然を守り、後世に残すことである。
それを承知であえて言うなら、世界遺産になる以上、文化財として学術調査が行われやすい環境にしていく必要があるのではないか。
仁徳天皇陵といわれる古墳も、誰の墓かは定かでない。所在地の地名のついた「大仙陵古墳」が正式名称であろう。
古墳群のうち「天皇陵」とされたものは、古代からそのように伝えられてきたわけではない。江戸末期から明治にかけ、幕府や維新政府が、万世一系として天皇を政治利用する意図から“創設”されたといえる。
古代から中世までの天皇の陵墓がどこにあるかは、江戸時代になると全く分からなくなっていたのである。そもそも、古墳に被葬者名は残されていない。
確たる証拠なしに、神武天皇から連なる万世一系の天皇の墓とみなす陵墓整備が、水戸藩による幕府への進言、天皇の権威を背景に成立した明治維新政府の手で進められたと考えられる。宮内庁が天皇陵墓の発掘調査を許さなかった理由とも関係する事実かもしれない。
かつて日経新聞奈良支局長のインタビューに宮内庁調査官はこう答えた。「陵墓は皇室の祖先のお墓です。今も祭祀が行われています。静安と尊厳を保つのが本義です」
もちろん、大阪府、堺市などの世界遺産運動を背景に、宮内庁の姿勢も徐々に軟化してきてはいる。
宮内庁の内部規則が変更され、2008年2月、考古学や歴史学など10以上の学会の代表者たちが、初めて天皇陵古墳に入った。そして昨年10月、宮内庁と堺市が仁徳天皇陵の共同発掘調査を実施した。
古墳保存のための基礎調査という名目だが、天皇陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めてだった。
膨大な人員と10年単位の年月をかけて巨大古墳をつくらせた権力者はどんな人たちだったのか。日本史の謎が古墳調査で少しでも解明されれば、本当の意味で世界遺産となるだろう。
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