さまざまな福祉活動に関わるジャーナリストの引地達也さんは、その活動の中で感じた課題や、得られた気づきについて、自身のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』で、伝えてくれます。今回は、障がい者が学んでいくために、「いてもよい」「居続けてもよい」「居続けたい」と思える場所の構築を模索する活動とぴったり符合した「アンカーをおろせる場所」という表現に触れた、学会での話を紹介しています。
障がい者の学びとは、アンカーをおろせる場所を作ること
そこが、その子がアンカー(錨)をおろせる場所だと分かったから─。「アンカーをおろす」という表現に私は思わず頷いた。そこは安全な場所だから「いてもよい」、そこは自分を責めないから「居続けてもよい」、そこは自分が何か出来る場所だから「居続けたい」。そんな心持ちのすべてを表現するのでは、と思い、今私が取り組んでいる活動がつながったのである。
日本において「障がい」によって、周囲から「出来ない」と認識されることで、それを恥じて、社会に居場所が得られず、居心地の悪さを感じている人のうち、「その気持ちを表現できない」人も少なくないはずだ。
錨をおろさせない社会は、インクルージョンを目指す姿勢とは程遠い現在地に私たちがいることに気づく。鈍感にマジョリティが重い錨をおろしたまま、マイノリティが「インクルード」(含まれる)ことを悠々と待っているようにも見える。
9月22日に広島大学で行われた日本特殊教育学会の自主シンポジウム「当事者から『青年期の学び』の意義を考える3 高次脳機能障害の青年の事例から」で、福祉型専攻科のシャンティつくば(茨城県つくば市)に通学する特別支援学校を卒業した若い女子学生についての母親の報告から、彼女の変化に焦点が当てられた。「もじもじ」していた彼女が人前で司会をしたり踊ったりする大きな変化の話である。
私自身も半年に一度シャンティつくばにうかがい、この女性学生の様子を目の当たりにした。変化するのを社会一般からみれば「成長」かもしれないが、それはやはり彼女が今まで家庭以外に自分の場所がなかったことで「もじもじ」していた、特別支援学校も錨をおろす場所ではなかったのだろう。居場所のない社会側の問題であると思うと、「もじもじ」を解消するための、安心できる場所が必要なのである。
この女子学生がアンカーをおろしたシャンティつくばはいつ行っても楽しくて愉快な場所だ。運動や旅行、パーティや各種体験等、行事が満載で自分のやりたいことを考え、計画立てて実行できるのが特徴。中心となる船橋秀彦先生も一緒になって楽しむから面白い。
それを赤木和重・神戸大准教授は「学びほぐし(unlearn)」という概念で解説した。青年期の学びは特別支援学校からの「積み増し」の学びではない、のを前提に「学びは広い」「学びは自由だ」「学びはおおらかだ」であり、シャンティの学びであるカラオケやイベント企画、アート作品の制作やダンスなどの実践は、その一つひとつが「教育」として有効だという。
その結果、件の女子学生がシャンティという空間の中に自分の身体軸をアンカーすることが出来たのだと分析した。不安だったこの女子学生が間違いも許してもらえる中で、記憶の持続が自分の持続へとつながり、自分にとっての「手応え」をつかんだのだという。
この学びほぐしの解説で、赤木准教授は福祉型専攻科「エコール神戸」(神戸市長田区)のよしもと新喜劇の演出家による「エコール新喜劇」を引き合いに出した。
おっぱいをネタにする劇を「教育か」という議論の中、それは新たな発見であるとの認識で、「おっぱい」を見事にネタとしたことが、自分たちの自主性が認められることにつながったという。「許される」という感覚であろう。
シャンティの取組も遊びながら、発見し、のびのびと成長しているのは、各学生が「ここはいてよい場所」と安心してアンカーをおろしているから。船橋先生が学生から親近感を得ている姿勢、先生の立ち位置も見習うべきだと私は注目している。
シャローム大学校は今のところ「学問」をやろうとする学生が厳かに学問をやっているが、それはそれぞれの個性に合わすことにして、来年入学する学生によっては、自由な遊びがどんどん増える可能性もある。それはアンカーをおろしてもらうためにも重要なカリキュラムである。
image by: シャンティつくばホームページ