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大河ドラマ「麒麟がくる」明智光秀はなぜ信長を討ったのか?

1月19日にスタートした今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は明智光秀。明智光秀といえば、本能寺の変で織田信長を討ち取ったことで知られますが、その進軍を前に言い放ったとされる「敵は本能寺にあり!」という言葉、とても有名ですよね。果たして、今回のドラマでも発せられるかどうか気になるところですが、実際にはあの号令はなかったはずだと語っているのは、メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さん。山崎さんは「本能寺の変」を深掘りしていくとともに、あまり語られることのない信長が自死を選択した理由や、明智光秀の戦国武将としての側面に関する見解を披露し。歴史好きの想像力を掻き立てています。

本能寺の変のこと

6月23日(西暦)は織田信長の誕生日として有力な二説のうちの一つである。その信長の事績を挙げればきりがないが、ここでは最も劇的かつ謎の多い「本能寺の変」について想像をたくましくしつつ考えてみたいと思う。

天正十年六月二日(西暦:1582年6月21日)未明、羽柴隊の援軍として中国攻略に向かう筈だった明智光秀旗下1万2千が本能寺滞在中の信長を討った。事実のみで言えばこれだけのことである。日本史上屈指の大事件でありながら、言おうと思えばこれだけにまとめることができるというところが却って未だ照らされていない闇の部分を強調し、語られていないストーリーを想像させる。実際、歴史的事実と通俗的曲解と創作的解釈が、これ程までに溢れた事件は他に類を見ない。「本能寺」に興味がない歴史好きはきっといないだろう。

 時は今 あめが下しる 五月かな

本能寺の変の前夜譚としてあまりに有名な『愛宕百韻』の発句である。この連歌の会は愛宕権現で五月二十四日(異説あり)に開かれた。これを
 土岐は今 天が下知る 五月かな
と読んで、光秀の決意表明とする説が一般的である。

しかし、これからクーデターを起こそうとする者がその一週間前にわざわざ腹の内を明かすのは如何にも不用意である。基本的に寺社にて開かれる連歌の会は奉納連歌であるから、そもそも非公開ですらない。主家である織田方の息のかかった者がいればたちどころにばれることになるし、そうでなくてもこんな物騒な句を聞かされては生きた心地がしない筈である。

となると、取り立てて危険という訳でもない普通の句と捉えるのが妥当で、信長を含め同時代の誰もが連歌の発句としてそれなりに相応しいと考えられる程度のものであったに違いない。やはり、
 時は今 雨が下なる 五月かな
と読むのが(少なくても意味的には)良いように思う。

同様の理由で「敵は本能寺にあり!」の号令も無かった筈である。そもそも「本能寺」と言われてもほとんどの兵は信長が滞在していることすら知らなかっただろうし、もし仮に幾人かでも知っていたとしたらそれこそ兵たちが浮き足立ってしまい収拾がつかなくなる。

事ここに及んで猶、成功確率を下げるようなことをする道理がない。また桂川を渡って洛中に兵を進めることは困難を極めるから成功の鍵は如何に静かに素早く進軍できるかに懸かっている。故におそらく兵たちの大半はのっぴきならない状況が眼前に展開されるまで自分たちの「敵」が誰なのか分からなかったであろう。

信長が自害した本当の理由

一方、信長はというと、これも意外な反応をした。あっさりと自害したのである。戦場におけるこれまでの信長の戦い方から言えば、随分と諦めが早い。勿論、一万余の軍勢に囲まれた時点で既に負けは決している。しかし、そうであるからこそ取るべき行動が自ずから明白となり、死地に活路を見出すことも可能となるのである。

この状況においては選択肢は二つ、即ち、出来るだけ早く逃げるか、出来るだけ戦闘を長引かせるかである。事実、過去に金ヶ崎で浅井・朝倉両軍の挟撃を受けた時には、配下の武将を見捨てて一目散に朽木街道を逃げた。また、本能寺は京都市中とはいえ半要塞化された寺院であったので、やろうと思えば籠城も可能だった筈である。籠城が長引けば長引く程、救援部隊到着の可能性は大きくなる。事実この時、小勢ではあったが嫡男信忠が妙覚寺にいた。

信長は戦術面では極めて理知的な男だったので、如何なる局面においても最善の方法を選んだ筈である。ということは、その時の信長にとって自害こそが最上策であったのである。信長の目的は、嫡男信忠を無事に逃がすことであった。自分が下手に生きていれば信忠は必ず救出に来る筈である。小勢の信忠が待ち受ける明智軍に挑めば明らかに戦況は不利となる。負ければ織田嫡流は滅亡である。それは避けなければならない。そういった論理が働いたに違いない。

この時点で信忠は正式に信長から家督を譲られている。信忠は幼い時から父信長に世継ぎとして育てられ、弟たちとは文字通り別格の扱いを受けた。外国人宣教師もその扱いの極端な違いに驚いているくらいである。信長からしてみれば信忠は正に虎の子だったのである。しかしながら、信長の願いも空しく信忠は父の後を追うこととなったのである。

犯人は明智光秀なのか?黒幕がいたのか?

最後に明智光秀が本能寺の変を起こした理由を考えてみたい。黒幕がいたという説はやはり無理があるように思う。なぜなら光秀よりも上位の者の意思が働いていたとするなら、変後の光秀の多数派工作においてその名が権威づけのためにあからさまに登場する筈である。少なくとも伏せることは不自然である。

ただ前もって事件を予想し、警戒していたであろう人物なら挙げることができる。千利休、黒田官兵衛(孝高)、羽柴秀長である。もう一つのルートとしては徳川家康である。ひょっとしたら家康だけが光秀から叛意を聞かされていたかもしれない。この時、一番信長の死を願ったのは他ならぬ家康であった。逆に言えば、信長に殺される可能性が最も高かったのが家康であった。

本能寺の変というクーデター

信長と家康は義兄弟という間柄ではあったが、その実は主従関係であった。信長にしてみれば、甲斐武田氏が滅んだ後は備えとしての家康の利用価値はほぼ無いに等しい。一方家康にしてみれば、それまで信長からは随分と酷い仕打ち(三方ヶ原の戦い・嫡男信康切腹・正妻築山殿殺害)を受けて来た訳だからいよいよ我が身が危ういと感じたに違いない。

実際、佐久間信盛や林通勝(秀貞)の追放など、織田家中では粛清が始まっていた。変後の神君伊賀越えも信長存命の可能性を恐れてのことだったのかもしれない。仮に信長が光秀に対して家康暗殺または討伐命令を出していたとするなら一万余もの軍兵が比較的容易に京に進軍出来たのも理解できるし、またそうであるなら本能寺を囲まれた時に謀叛の首謀者として真っ先に家康の顔が信長の脳裏に浮かんだ筈である。

結果として光秀が信長殺害に失敗したなら家康は窮地に追いやられることになる。神君伊賀越えは生き残った信長に詰問された際の言い訳である。「信長様とともに戦うため一命を賭して一旦領国へ戻り配下の兵を引き連れて上洛するつもりでした」とでもいえばいい。いずれにしろ、家康はせいぜい同調者程度の関わりである。

となれば理由はやはり光秀本人の中に見出すべきであろう。あまり言及されないが、光秀は紛れもなく戦国人である。戦国に生まれ、戦国に生き、戦国に死す。それが戦国の武者である。

小説やドラマでは光秀は心優しい名君として描かれることが多い。事実そうであったろう。しかしながら、残酷な殺戮者・征服者としての側面も戦国の同時代人として当然持ち合わせていた筈である。そして戦国人である以上やはり天下を夢見たであろう。いや、夢とばかりは言い切れない。少なくとも光秀はそれに手を伸ばせば届くところにいたのである。だから「本能寺」に賭けたのである。

チャンスは突然やって来た。信長父子が小勢で京に滞在している。堺の家康討伐を口実に大軍を京に進めることが出来る。父子を討ち取るには信長、信忠の順でなければ仕損じる。どちらか一方でも逃せば織田宗家は存続しクーデターは失敗である。

この大事を光秀はやってのけた。少なくとも半分は成功した。唯一にして最大の失敗は信長の首級を挙げることが出来なかったことである。天下人信長の死亡は100%でなければ意味が無い。ほぼ確実の99パーセントでは駄目なのである。その残り1パーセントに家康は揺れたし、秀吉は付け込んだ。しかしながら、この瞬間において惟任日向守光秀が日本で最も強い光彩を放ったということは間違いない事実であろう。

image by: Shutterstock

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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