MAG2 NEWS MENU

すべて自己都合。安倍首相が東京五輪を2年でなく1年延期にした訳

3月24日、東京五輪の1年程度の延期を発表した安倍首相。新型コロナウイルスが猛威を振るう中、開幕予定だった7月24日の4ヶ月前というギリギリのタイミングでなされた「決断」でしたが、なぜ首相は延期期間を「1年程度」としたのでしょうか。ジャーナリストの高野孟さんが自身のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』で、その真相に迫ります。

※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2020年3月30日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

1年延期でますます開催意義が問われる五輪──「全世界こども運動会」に切り替えたらどうか

安倍晋三首相は3月24日、IOCのバッハ会長と電話会談し、東京五輪を「おおむね1年程度延期することを検討してもらいたいと」と提案、「100%同意する」との返答を得た。その後に安倍首相は記者会見し「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして完全な形で東京大会を開催する」と説明した。

しかしこの構図は著しく歪んでいて、そもそもなぜここに安倍首相がしゃしゃり出てくるのか分からない。五輪の開催・延期・中止を判断し決定する権限を持つのはIOCであって、彼らが通告ないし提案してきて日本側がそれに同意するのが筋である。しかも彼らがそれを言うべき相手は組織委員会の森喜朗会長であって安倍首相であるはずがない。組織委員会こそが、日本五輪委と東京都とで作った東京五輪の責任ある実施主体であって、安倍首相はその顧問会議議長ではあるけれども、森を差し置いてバッハとやりとりする立場にはない。

ずる賢いバッハの逡巡

バッハが「自分からそれを言い出すのをできるだけ避けているように見えた」理由について、スポーツ社会学の坂上康博=一橋大学教授は、テレビ局やスポンサーに大きな損害を与えてしまうこと、IOCが開催地に負担を強いているという印象を強めることを恐れていたからだと指摘している(3月26日付朝日)。

IOCの2013~16年の収入は約57億ドル(約6,300億円)で、その7割強がテレビの放映権料。かつてはそのまた7割以上を米国のテレビ局が占めていて、彼らの意向で開催時期は米国内のスポーツ競技の閑散期に当たる夏で、さらに人気のある競技は米国のゴールデンタイムに生中継できるようゲーム開始時間が組まれるということが罷り通っていた。今では、米テレビ局のシェアはそれほどでもなく、放映権料全体の中で5割程度と見られているが、それでもIOCとしては放映権料を少しでも高く売るのに命懸けなので、出来れば自分から延期や中止を口にしてテレビ局やスポンサー企業の機嫌を損ねることはしたくない。

また開催地の経済負担の大きさという問題は、すでに五輪そのものの存続に関わるほどに深刻さを増している。無理を重ねて誘致して施設の整備や大会の準備に莫大な費用を注ぎ込んでも、大会後にはその国の経済全体が落ち込み、せっかくの施設も市民スポーツの増進には役立たずに廃墟化するなど、マイナス面ばかりが目立つようになった。そのため招致の手を挙げるのはロンドン、東京、パリなど先進国の巨大都市ばかりになり、他の都市で市長が動こうとすると市民から反対運動が起きるような始末である。

つまり五輪そのものがもはや黄昏のビジネスとなりつつあって、そこで今回「中止」となれば破局は間違いなし。「延期」であっても恐らく何千億円もの追加費用を投じて無理に無理を重ねて強行しなければならないはずで、それを見ればますます誘致希望者はいなくなっていく。それを思うと、バッハはたぶん、自分の方からは「さらに何千億円かけてでも延期せよ」とは言い出せなかったのだろう。

小賢しい安倍首相の立ち回り

他方、安倍首相は、バッハと森に任せておけば優柔不断の二乗となって決断が遅れ、延期もままならず中止に追い込まれることを恐れたのだろう。これを中止ではなく延期、しかも2年ではなく自分の自民党総裁任期内の1年延期に止めるべく、権限外の場違いであることを厭わず介入した。

おそらく彼の頭脳の内では、新型コロナウイルスという非常事態の先頭に立って戦っているのは自分であり、その非常事態の結果として五輪の中止・延期を判断しバッハとやりとりするのが自分であって何がいけないんだ、という一種の意識混濁があったに違いない。さらに「後手後手のあとのやってるフリの先手先手」と川柳欄で揶揄(からか)われているような前のめり姿勢も作用したに違いなく、それがこの異様なパフォーマンスとなった。

中止となれば、後手後手への非難を含めて責任論が噴き出して、安倍首相は早期辞任となりかねない。それを避けるには延期だが、それも2年先では自分がどうなっているか分からないから1年先なのである。しかし、それってすべて自分の都合ですよね。本当は、指導者というものは、自分のことはさておいて、中止と延期でどちらが時間とエネルギーと費用が少ないか、延期の場合に1年先と2年先ではどちらが日程を組み替えやすくて費用も最小で済むかなど、まずは国民と世界のアスリートにとってのメリット・デメリットを試算して提示し、判断を仰ぐのが普通でしょうに。

ライターの武田砂鉄は「なぜ中止ではなく、延期なのか。『1年』の根拠は何なのか。こうした疑問に明確な説明があったわけでもない……。延期より『中止』が経済的な損失が少ないのではないか。『復興五輪』ならこのタイミングで中止してその分のお金を復興に回す。そう考えてもいいはずなのに」と指摘する(前出3月26日付朝日)。

もう止めたほうがいい五輪

このドタバタ劇から透けて見えるのは、五輪そのものの馬鹿馬鹿しさ──と言ってしまうと身も蓋もないが、時代との関わりですでに歴史的使命が終っているという事実である。

オリンピック憲章が「オリンピック競技会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(1章6項1)「国ごとの世界ランキングを作成してはならない」(5章57項)と定めているが、これはほとんど空文である。早くも1908年の第4回ロンドン五輪から、開会式の入場行進が国ごとに国旗を掲げて行われるようになり、それ以来五輪はもっぱら「国威発揚」の道具として弄ばれてきた。それは、20世紀という国家エゴイズムの剥き出しのぶつかり合いの時代にふさわしい道具立ての1つだったと言えるのだろう。

冷戦の終わりと共に、そのような国家エゴの時代は本質的には終わったはずなのだが、米国を筆頭に多くの国々はまだ20世紀へのノスタルジアから自由になれずに相変わらず軍拡を続けていて、そうであるからこそ五輪もまた惰性で続けているのである。

そのためには「世界最大のスポーツの祭典」という虚構を膨らまし続けなければならない。しかしそうは言っても世界3大球技と呼ばれるバスケット、バレー、サッカーはそれぞれ独自の国際的な組織と世界選手権に至る競技日程を持っているし、水泳、陸上、テニス、ラグビー、卓球、ゴルフなどの競技もみな同じで、五輪が頂点とはならない。そこでIOCはそれらメジャーな競技の国際連盟に補助金を注いで何とか繋ぎ止めて体裁を繕う一方、他に何かテレビ映りのよさそうな新奇な競技はないかと探し回り、これが本当にスポーツと言えるのかと思うような曲芸まがいのものまで参加させようとする。結果、無闇な大規模化が進み、今回で言えば33競技339種目にまで膨らんだ。

いきなり廃止というのもどうかと言うなら、前々から言われているように、開催地をギリシャに固定し、競技も1896年第1回アテネ大会と同等の10競技40種目程度に減らして続ければいいのではないか。あるいは、思い切って発想を転換して、巨大スタジオ1つだけを会場にした「全世界こども運動会」にするのはどうか。

image by: f11photo / Shutterstock.com

高野孟この著者の記事一覧

早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。メルマガを読めば日本の置かれている立場が一目瞭然、今なすべきことが見えてくる。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料お試し登録はこちらから  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 高野孟のTHE JOURNAL 』

【著者】 高野孟 【月額】 初月無料!月額880円(税込) 【発行周期】 毎週月曜日

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け