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コロナのおかげ。TVプロデューサーが悟った、自分に正直な生き方

新型コロナウイルスの感染拡大が続き不安な日々が世界中で続いていますが、テレワークの急速な発達など、私たちの生活に大きな変化をもたらしたことも事実です。そんなコロナ禍が与えてくれた「恩寵」について語っているのが、TVプロデューサーとして「からくりTV」「金スマ」などを企画制作した、バラエティプロデューサーの角田陽一郎さん。角田さんは自身のメルマガ『角田陽一郎のメルマガDIVERSE』の中で、コロナを機に「なるようにしかならない」と悟った心境を明かし、コロナ後の生き方について持論を展開しています。

コロナと恩寵

本当ならば先週末にはオリンピックが始まっているはずでした。しかし、今やこの生活が本当の現実なわけです。とてもこんな事態に及ぶとはほんの半年前までは思ってもいなかった、その事実に愕然と呆然と唖然としますね。

一方で、こんな(今までの想像していた)未来と、違う未来に向かおうとしている世界に、なんていうかうまく言えないのですが、なんかワクワクしている自分もいるのです。うーん、ワクワクというのとは違うかな? ドキドキかな?

でも、そんな予想できない未来に、というかそもそも未来は予想できないわけですから、そんな想像もつかない未来に、むしろ想いを馳せるって時に、ある種の想像がつく範囲内で予想外に一喜一憂するくらいなら、むしろ全くの想定範囲を超えた未来に、自分の残りの人生を投入するってのも、なんかドキドキするわけです。どうせ人生は一度きりですしね。

でもそれと同時に、その一度きりをどう使うか? なんて、実はどうでもいいような気もしているわけです。どうでもいいだと、ぶっきらぼうすぎるなら、なるようにしかならないと、たかをくくるしかないんだと思っているわけです。で、この心境になったのも、実はこのコロナ禍のおかげなんだと実は思っています。いままではいい意味でも悪い意味でも、もっといろんなことを細部まで考えていたような気がします。なんか他人の目を気にしているというか、結果にコミットしているというか、目的があって、その目的を遂行するために日々着実に生きているというか。

でもそんな、なんていうか生きるためのプレッシャーみたいなものを多かれ少なかれ皆持っているんだと思うんですけど、そんなプレッシャー自体が意味のないものなんじゃないか? むしろ生きている時には不必要なものなんじゃないか? ってそんなことを思うようになりました。

まあ、今回も行きつ戻りつ、漠然とした文章ですが、でもそんな文章でいいやって思いで書きますので、まあお付き合いください。

決めることのプレッシャー

何かを決めるって行為は何なのでしょうか?

人は何かを決める時に、多かれ少なかれプレッシャーを感じますよね。何かを決めるとは、何かを判断するってことです。ということは、プレッシャーというのは、つまりこの自分の判断する行為に深く関係しているんだと思うわけです。

では、なぜそんな判断をする時に、人はプレッシャーを感じるのでしょうか?

まず第一の理由は、その判断で、正しい方向に行きたいからってことですよね。判断を間違うのが怖いわけです。

その判断が正しい方向を指し示せているかなんて、とても心もとないわけです。なので不安を感じます。その不安を喚起する力をプレッシャーと呼んでいるわけですよね。

でもこういう風に考えると、そんなことでプレッシャーを感じるのは今や全くもってナンセンスなんだって同時に思うわけです。だって、さっきも述べたように、未来に向かって、もうどんな判断をしたって、そんな自分の判断では想像できない方向に世界は向かってしまうかもしれないわけですから、つまりその判断で(仮に)間違えた方向に行ったとしても、それはもう仕方がないことだったりするわけです。そう思うと、僕はこのコロナ禍で、ある意味、判断をすることから来るプレッシャーからむしろ解放されたっていうことなのかもしれません。

このプレッシャーからの解放を、このコロナ禍で(僕は)感じているから、そんな不確かな未来にむしろワクワク(ドキドキ)できるようになったとも言えるわけです。これは、ある意味おかしな感覚ですが、世界がより不確かになったので、判断の不確かなことが自分のせいではなくなって、肩の力が抜けて気が楽になったってことなんでしょうか? 今この文章を書いていて、気付きました。きっとそうなんですね。やはり自分の頭の中の漠然とした想いを、ロゴス(言葉)にしてみるということは、意味のあることなんですね。このからくりが見えたわけで、自分がこの文章を書いていて、少なくともより頭の中がクリアになりました。

そして、プレッシャーのもう一つの原因は、それは他人の目が気になるからですよね。自分の選んだ判断が、自分の中では納得していても、ちょっと周りの人に相談してみると、家族だったり、恋人だったり、会社の人だったり、なんならSNS上の反響とか、そんな他人のリアクションが気になって気になって仕方がないわけです。なので、そんな他人の目を気にして、人は判断をしなければいけないことが、とてもプレッシャーを生むんだと思うのです。これはある意味一つ目の原因より強い場合が多々あります。特に社会や組織で何かを決めなくてはいけない立場の人は、自分の想いよりも他人の目の方がキツかったりするんだと思うわけです。

でもこれは、致し方ないことです。だって人は一人では生きていけないから。他人の力がないと生きられないからです。つまり、その人が判断を間違えると、そんな他人の集合体である組織や社会の信用を失うってことを意味するからです。このプレッシャーは半端ない力です。そして大部分の悩みはそんな信用を失うことへのプレッシャーなんだと思います。

では、そんな二つ目のプレッシャーに対して僕たちはどうすればいいのでしょうか?

正直に生きる

これは、あくまで僕の場合です。なのでみなさんの参考にならないかもしれないです。でもそう信じて生きるしかないので、今からそんな僕が信じていることを、他人の目を気にせず、プレッシャーをはねのけて書いてみようと思います。

まず、自分が何を決めたって、間違えるか正しいかはわからないわけです。これはさっきから何べんも書いていますよね。そして、そんな不確かなのに、他人がいないと自分が生きていけないから、人は何かを判断した時に、その判断の是非を気にしてしまうわけです。

でも、その判断がそもそも不確かなわけですから、そんな不確かなことで他人の目を気にしてしまうことがそもそもナンセンスなんだと思うわけです。

てことで、他人の目を気にしないようにします。すると実際、お前の判断はおかしいと言われたり、罵詈雑言が聞こえてきたりするのも確かです。そんなことは気にしなきゃいいのに!って言われたとしても、そんなのやっぱり気になるじゃないですか、ていうか、結局それだと堂々巡りになります。

なので、僕はまず判断します。そしてその判断が正しいか、間違っているかわからないけど、そう判断するしかなかったと、他人に対して正直に伝えます。結局、自分のできることは、他人にも、自分にも正直になるってことしかないんだと思うわけです。

なんだ、そんなことか。自分は十分に正直だよ!・・・そう思われた方も読者の方にはおられるでしょう。もしそうなら、それでもちろん構いません。どんどんそれで進んでください。でもこの、何かを決めた時の心境まで、正直に話すというのはとても難しいことで、僕の経験上、そういう決めごとのプロセス(経緯)を隠す、いやな言い方をあえて正直に使えば「隠蔽する」ような個人や組織ってのは結構あるんだと思うのです。その事実を知ってか知らずかは知らないですが。

例えば、僕らの職種のプロデューサーの行為のもっとも重要な仕事にキャスティングという作業があります。この番組にタレントの誰々さんに出て欲しいと思って、声をかけても、相手から断られたり、むしろすぐ断られたりすればまだましなのですが、ずるずると出る出ないの回答が引き伸ばされて、直前になって断られてめちゃくちゃ焦るなんてのは、よくある苦い経験なのです。

なので、僕らプロデューサーは、出演交渉で当たる順番を事前に考え、一番出てもらいたい人、二番目に出てもらい人、と候補にランク付けをして、一番から当たることになりますが、一番の人が一番出てくれない著名な方だったりするから、それがこの作業の困難さの原因な訳です。で、一番の方に断られると怖いので、どうするかというと二番目以降にも声をかけたり、探りを前もって入れてしまったりして、いざ二番目の人からOKをもらっておいて直前に本命の一番目のタレントさんにOKいただけちゃったら、さあどうするか?ってことがよくあったりするのです。

こんな時、とてもお腹が痛くなります。頭も痛くなります。番組のことを考えると一番の意中のタレントさんにもちろん出てもらいたい、でも二番目のタレントさんにすでに、それも先に、OKをいただいちゃってる。てことは一番の人に出演をお願いすると、結果的に二番目の人との先約を反故にして、二番目を裏切ることになるわけです。こういう事態は、実はキャスティングに限ったことじゃないでしょう。誰でもあらゆる場面で、こういう判断を迫られているんだと思うのです。みなさんならどうしますか?

A、二番をきっぱり断って、一番に行きますか?
B、あるいは二番に嘘をついて、適当な断る理由をつけて、二番を断りますか?
C、一番をあきらめて、正々堂々と二番手をキャスティングしますか?

そんな、判断に迷うことってありますよね。さきほど「正直になる」と僕は言いましたけど、正直な行為というのは、この三択の中では、AとCですね。むしろBは嘘をついてますもんね。で実際いろんなプロデューサーがいますが、どんなプロデューサーもだいたいBを選ぶんだと思います。僕もBを選んできたこともありました。Aは二番目の人と今後の関係も崩れるかもしれませんし、Cは仕事としてもったいないと考えがちですから。

でも、今の自分は、Bを選んでしまうこと、つまり正直に振る舞わない、ってのが実はダメなんじゃないか?って思っています。では何を選ぶか? もし今の僕だったらAをまず選びます。そして二番のタレントさんの事務所に正直に伝えます。正確に言えば、「一番目の人にも同時に当たっている」と、二番目の人が判断する前に正直に伝えていると思います。で、仮に二番目の方と僕が正直に伝えたことでモメそうなら、きっぱりCを選択します。一番目の人を断って(二番目の人が先に決まってしまったと伝えて)、二番目の方で番組を作ると思います。

なぜかというと、結果的にそうした方が、一番目の事務所とも二番目の事務所とも、正直に話すことをしたことで、後々の未来の関係性がよくなるからなのです。その時は揉めるかもしれませんが、どちらの相手も、角田は正直な人なんだって、印象を持ってくれます。そしてその印象が、また次の仕事の機会に生きてくるからなんです。これって、論理的にそう思うというより、結果的にそうプロデュース業をしてきて、それでよかったって感じてるあくまで僕の経験則なのかもしれないのですが。

そして思うのは、自分が逆に出演する方の立場になって、あるプロデューサー的な人からこういう風に頼まれることが多くなった時、Bの対応をされると、とても悲しくなるということを経験したこともあります。僕が出演することが決まっていたのに、Bのケースのように直前になってなんかよくわからない理由で断られた時、とてつもなく疑念を持ちます。少なくともその人とは次の仕事はしないようにしようと心に決めたりします。当然、なんか理由を言ってくるのですが、それが薄々言い訳に聞こえてしまうと、その薄さにものすごく嫌気を感じるわけです。むしろAのようにちゃんと「誰々さんと今回やることになりました」と言われた方が、僕も、僕より誰々さんを選ぶ方が正当だよなと思って、清々しく後腐れなく関係を維持できるなと思ったりできるのです。

正直に生きること。なんていうか、もうそれしか僕にはできません。仮に嘘をついたのなら、嘘をついてしまったと正直に伝える。不快な思いをしたなら不快な思いをしたと伝える。嬉しかったら嬉しいと伝えるように、疑念を感じたなら疑念を感じたと伝える。その疑念が間違ってると、あとでわかったのなら、その時は疑念を持ってしまって申し訳なかったと正直に伝える。もう僕には、それしかできないと、今は思うのです。

あらゆる人間関係がリモート化してくると、どんどん人と人の間に疑念は生まれます。なので誰もが正直に生きる、ということがこの世界の未来を、いい方向に進んでいくための唯一の手段なんじゃないかって、僕は今、青臭く、正直に、真っ当に、思っているのです。

image by: Shutterstock.com

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