外出自粛や営業自粛。「自分の考えで慎むこと」を意味するはずの「自粛」が、いつの間にか「他人の考え」によって行動を規制されてはいないでしょうか。メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんは、この違和感を突き詰め、現在の使われ方に合う「自粛」の定義付けを試みます。そうすることで見えてきたのは、容易に全体主義化する日本人の民族性であり、そこにつけ込み利用する政府の姑息なやり口でした。山崎さんは「自粛」はもっと出鱈目でよいと提言し、いまの日本人に必要なもっと大切なことが何を示しています。
自粛のこと
「自粛」という語の意味をいくつかの辞書で引くと大体が「自分の考えでつつしむこと」というようなところで落ち着く。まあ、そうだろう。しかし昨今の日本においてはどうやらこれでは不十分のようである。ということで今回は、この現代語についての新たな意義記述をしてみようという試みである。
自分の記憶では、この語が初めて現代のような用法で使われるようになったのは昭和天皇崩御の時である。日本中がどんよりとした暗くて重い空気に覆われ、どういう訳か人前で何かを楽しむことがおそろしく罪なことのように思えた。いや、思わされた。その時は特に宮城に程近い銀座の「自粛」がすさまじかった。灯りの消えた夜の銀座は本当に真っ暗であった。テレビ番組などでマイクを向けられた店の経営者たちはその状況を口々に嘆いていた。
しかし「自粛」が「自分の考えでつつしむこと」なら、自分の考えでそれをやめることもまた自由にできる筈である。少なくとも「自粛」という語の意味に忠実に従うなら理屈の上ではそうなる。ところが誰も自分の考えで「自粛」をやめようとはしなかった。
かくして昭和天皇の容態がいよいよという頃から始まった「自粛」は平成という新しい時代を表す言葉が当たり前になる頃まで続き、いつしか一斉に終わった。今日へと続く「自分の考えならでつつしむ」「自粛」の始まりである。
では自分の考えでないなら、一体誰の考えなのか。もちろん誰とも限定することはできない。敢えて言葉にするなら「他人の目」あるいは「世間体」といったところであろう。「自分の考えではなく(他人の目があるから)つつしむこと」現代語の「自粛」の誕生である。
そこに「他人の目」や「世間体」があるからこそ、やがては「罰」の意味をも含み持つようになり、以後、芸能人などが不祥事を起こした際には「活動を自粛する」というのが反省を示す第一常套の手段として認知されるに至った訳である。本来の意味通りの「自粛」なら「自分の考えで(勝手に仕事を)つつしむ」だけだから、個人事業主の場合ただの休みに過ぎない筈である。にもかかわらず、こちらの方でそこに執行猶予的あるいは謹慎的な意を酌み取ってしまうのは、逆説的に「他人の目」や「世間体」というものが如何に恐ろしいものかということを雄弁に語っているとも言えるのである。
我々は先の緊急事態宣言下、長期に亘る「自粛」を経験した。これがすさまじいストレスになったのは「自粛」とは言い条、それが「他人の目」や「世間」というものに強制されたある種の「罰」の感があったからである。だから、一見矛盾概念的な「自粛明け」、「自粛期間も終わって」というような表現も、テレビなどで出演者が当たり前に言っていいフレーズとなったのである。因みにこれらのフレーズはそのまま「執行猶予明け」「謹慎明け」、「執行猶予期間も終わって」「謹慎期間も終わって」と平行に入れ換えて表現することができる。
日本にファシズムはなかったという人がいる。ファシストがいなかったからだ。それでもやはり日本独自の全体主義は確かに存在したと思う。この「自粛」という語を考えるだけでもそれが分かる。我々日本人は容易に全体主義化する民族なのである。罰則のない日本の「自粛」が奏功した理由について西洋の知識人はやたらと不思議がっていたが、そもそも「自粛」自体が既に罰のようなものなのである。そしてそれを監視するのが「他人の目」や「世間」といったものなのである。
日本政府は卑怯である。そして姑息である。我々日本人のこの性質を知った上でそこにつけ込んだからだ。我々はもう少し「自粛」というものに対して出鱈目でもいいと思う。身に覚えのない罪で罰せられる謂れはどう考えてもないからである。
それよりも大切なのは科学的根拠に基づいた自制である。「自制」という語には明らかに意志の働きがある。明確かつ強い意志をもって自らを制する。今の、そしてこれからの我々にとって何より大事なことである。
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