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97年前の9月1日11時58分32秒。神奈川県人は関東大震災で何を体験したか

9月1日は、大正12(1923)年9月1日に「関東大震災」が発生した日であることから1960年、「防災の日」に制定されています。では、その関東大震災の震源地はどこだったのか、ご存知でしょうか? 心理学者でメルマガ『富田隆のお気楽心理学』の著者である富田隆さんは、自身の親から聞いた「関東大震災」の体験談などを紹介しつつ、その知られざる震源地と被害について解説。また、関東大震災の資料から気づかされた「大切なこと」を記しています。

関東大震災の震源地は東京ではない

9月1日は「防災の日」ですね。

なぜ、9月1日なのかと言えば、もちろん、「関東大震災」の起きた日だからです。

私の父は、この震災の揺れを体験しています。東京ではなく、祖父の勤務先の長野で、まだ5歳でした。子供ながらに驚いて、家の外へ飛び出してしまうほど大きな揺れだったそうです。電線や電信柱が大きく揺れていたのが印象に残っていたと私にも話していました。

戦後、私の子供時代になっても、まだ震災の経験者は数多く生き残っていましたから、私にとっては何となく身近に感じられる大震災です。

1923年、大正12年、9月1日、午前11時58分32秒、マグニチュード7.9の大地震が首都圏を襲いました。

建物の全壊が10万9千棟。火災による全焼が21万2千棟。横浜や東京は壊滅状態でした。190万の人々が被災し、10万5千人の人命が奪われました。

甚大な被害を出した関東大震災ですが、意外にその「震源地」は知られていません。

貴方は震源地がどこか、ご存知でしたか?

実はこの地震の震源は神奈川県西部なのです。

その時、神奈川県で何が起こったか

足柄に接する山北町の神縄(かんなわ)地区から松田町、そして相模湾沿岸の小田原市国府津(こうづ)地区にかけて、南北斜めに断層が走っています。

現在、「神縄・国府津‐松田断層帯」という名で知られている断層帯には幾つもの断層が走っています。これら酒匂川(さかわがわ)沿いの活断層がズレることで、あの関東大震災が引き起こされたのです。

ですから、震源を抱えていた神奈川県の被害の大きさは東京都を上回っています。

全壊家屋だけを見ても、東京都が2万4469棟であるのに対し、神奈川県では6万3577棟となっています。

東京の場合、地震に続いて発生した火災の被害が17万6505棟とあまりにも大きく、後世の我々が受けた印象では、震源地も東京であるかのような誤解が生じ易かったのでしょう。

また、浅草十二階(凌雲閣)など、震災で倒壊したり焼失した有名な建物が東京に多かったことも、我々の印象に影響を与えているのでしょう。

しかし、地震そのものの揺れという点では、神奈川県、特に震源に近い小田原市、平塚市や茅ヶ崎市など湘南地区の方が強い揺れに襲われたわけです。

神奈川在住の知人などでも、実際に震災を経験した人たちから話を聴いた世代はまだ存命で、「歩いていた人が数メートル飛ばされた」とか、「家から庭へ人が放り出された」といった体験者からの伝聞を覚えています。

それらを総合すると、地震そのものの被害という点では、神奈川県の被害が最も大きかったと考えて良いでしょう。

100年近い歳月が過ぎ、関東大震災は歴史の一部となってしまいました。

歴史的な出来事に対する私たちのイメージは、映画やドラマ、小説など、様々な「物語」によって創られています。

これらの物語は、いくら作者たちが忠実に史実をなぞったとしても、作者たちの眼を通して語られたものであり、フォーカスの当て方も描き方も彼らの主観に偏らざるを得ません。

こうした主観の寄せ集めにより創られた私たちのイメージを修正してくれるのが歴史的な「記録」です。

もちろん、「記録」にも偏りは存在します。

そもそも、全てが記録として残るわけではありません。

誰が記録したかにより、記録者のバイアスがかかるのも当然です。

それでも、記録の方が、相対的に「客観性」を保ち得るのです。

たとえば、震源地の記録に接することで、私の頭の中の関東大震災はそれまでのイメージからかなり姿を変えました。

「震源地はどこだっけ?」という素朴な疑問に答える「記録」が存在し、それに接したことがきっかけとなって、当時の都県ごとの被害という「記録」を調べ比較することで、神奈川県の被った被害の甚大さに気づく、という一連の思考の流れが生じました。

記録や資料というものの大切さを実感した次第です。

おそらく、歴史家や歴史学者の使命のひとつは、そうした記録を蒐集保存し分析することを通して、客観的な(というより客観を目指した)「歴史」を再構成することにあるのでしょう。

こんなことを考えながら、資料を眺めていた私は、ある大切なことに気づかされました。

それは「信用」というものの大切さです。

あれだけの大災害から首都圏が立ち直るためには、政府や国民の努力だけではなく、膨大な「資金」が必要になります。政府も企業も備蓄していた資金を放出しましたが、それだけで足りるはずもありません。

そこで、政府は「震災善後処理公債」を発行して、海外から資金を調達します。

米国のモルガン商会は、当時の国家予算の60%を超える10億円という額の公債を引き受けます。ロスチャイルドもまた多額の引き受けに参加します。

見方を変えれば、その後の帝都の復興と近代化は、モルガンやロスチャイルドなどの欧米財閥からの借金により成し遂げられたと言っても良いでしょう。

もちろん、貸し手側の彼らも慈善事業をやっていたわけではありません。

当然、貸した金は、利息込みでしっかり回収しました。

そもそも、彼らは「回収できる」と判断したから貸したのです。貴重な資金を日本の公債に投資したのです。

つまり、彼ら欧米の財閥は日本を「信用」していたわけです。

金融の世界で最も大切なのは、この「信用」なのです。

当時、まだアジアの貧乏国に過ぎなかった日本は、日清、日露の戦役でも必要となった戦費を欧米から借りました。高橋是清たちが、頭を下げて世界中を回ったのです。

そしてその後、血と汗と涙を振り絞って、これらをきちんと返済しました。

さらに程なく勃発した第一次大戦にも、日本は英国、米国に味方して参戦します。

その結果、日本は彼らの「信用」を得たのです。

ですから、関東大震災への支援金や支援物資においても、米国は群を抜いていました。

彼らのおかげで日本は立ち直ったのです。

その後、20年足らずで、日本と彼らが戦火を交えるなどと、当時の誰が想像したでしょう。

そして、第二次大戦の悲劇を乗り越え、75年の歳月をかけて、日本は再び、彼らに「信用」される国家として蘇りました。今や日本の国債は、ある意味、米国国債以上の信用を得ています。

一方、今日の中華人民共和国政府は、国内政治を優先させるために、香港に関する「一国二制度」の国際公約を破り捨てました。かくて、中共の信用は地に落ちました。

経済力と権力、札束と脅ししか信じていない彼らには、「信用」というものの価値が理解できなかったのです。

日本の中、特に財界人の中にも、「現実主義」を標榜して、「中国抜きで経済など成り立つものか」とうそぶいている人たちがいます。

もちろん、中国という「現場」を知っている彼らの部下たちは、中共政府傘下のビジネスマンたちが利害得失でのみ動く「信用」のできない相手であることを熟知しています。

しかし、冷房の効いた部屋で数字だけしか見て来なかった「経営者」たちは、彼の国を「普通の経済大国」、巨大なマーケットとしか見ていません。

そうした「財界人」の硬直した頭脳では、海千山千の欧米資本主義の先輩たちが、なぜ今、中共を見限ったのかということすら分からないのです。

莫大な犠牲と努力により築き上げた日本の「信用」をドブに捨てる者がいるとすれば、それは、彼らのような「お雇い財界人」でしょう。

少々脱線してしまいましたが、関東大震災という未曾有の災害が意味するものは、実は想像以上に深く重く、その根は現在にも繋がっているのかもしれません。

気が付けば、その「関東大震災100周年」が3年後に迫っています。

image by: Shutterstock.com

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