昨今の「AI(人工知能)」の発達により、いよいよ人間の7、8割が仕事を失う時代がやって来ると言われています。果たして、私たちは便利さやスピードなどと引き換えに何を失ってしまうのでしょうか? 心理学者でメルマガ『富田隆のお気楽心理学』の著者である富田隆さんは、AIによって変化した私たちの新しい生活を予測しながら、それでも「無くならない」ものについて大胆な仮説を立てています。
AIと人間。これから「大量失業」の時代がやって来る
コロナ後の世界が、これまで以上に情報化されたものになるのは、ほぼ確実でしょう。
AI(artificial intelligence:人工知能)の進化と、産業の各分野への進出は、大量の失業を生み出すはずです。
現在の進化段階においても、AIが得意とするのは、論理的に明晰な判断を必要とする業務です。
医療分野での診断や、司法関連における、法律や過去の判例を参考にした判断、金融関係の複雑なルールを踏まえた、データに基づく資金運用、自然言語や俗語、方言などの翻訳、工学機械などの設計シミュレーション、等々、の専門的知識や判断を必要とする領域では、これまで人間がやってきた作業のかなりの部分はAIに取って代わられます。
医師や弁護士、会計士、など専門職の「先生」方がいなくなるわけではありませんが、現在のようにたくさんの人数は必要なくなるので、7から8割の人たちが転職を余儀なくされるでしょう。
いわゆるホワイトカラーの仕事でも、直接人間を相手にしない事務などの業種はAIの得意とするところですから、一般的なビジネスマンも大量の解雇を覚悟する必要があります。
もちろん、人を相手にする営業やサービスの領域でも油断はできません。
アマゾンや楽天などのネット販売は、「コロナ籠り」を追い風に業績を伸ばしました。
このように、ネットを介してのサービスや流通は、既に、従来の直接対面型の商取引やサービス業にとっての重大な脅威となりつつありますが、AIの更なる進化と応用は、こうした傾向をますます加速することになるでしょう。
そして、このような潮流は、我々が知っている従来の「仕事」の内容そのものを大きく変えてしまうはずです。
となると、職種そのものは無くならなかったとしても、それぞれの分野で労働者に求められる仕事の中味は変わらざるを得ないので、変化に順応できない人たちは失業の憂き目に遭うかもしれません。
ただ、これまでの仕事が減る一方で、それに倍して新しい仕事が産み出されるのも確かです。
これは、希望的観測でも「気休め」でもなく、過去の現実から導き出される推測です。
たとえば、産業革命の時代、蒸気機関や内燃機関の登場により、それまで人間や牛馬が担ってきた肉体労働は減りました。しかし、新たに工場での労働や機械の操縦、事務や営業、サービスなどの新しい業種が生まれ、それまで無かったたくさんの雇用が産み出されたのです。
現在、私たちが従事している仕事のほとんどは、この時代以降に新たに登場した仕事です。
同じように、80年代以降、コンピュータや通信技術などが産業の各分野に進出するに従って、プログラマーやシステムエンジニアなど、新たな業種や仕事が生まれました。情報革命の時代においても、仕事全体は減るどころが増えたのです。
人類のこれまでの歴史を振り返ると、技術革新により従来の仕事が機械に奪われるのは確かなのですが、それにより、産業構造や社会システムが変わり、新たな仕事が必要とされるようになるのです。新たな仕事のニーズは、常に、増大し続けます
「人間らしさ」とは何か?
では、AIが私たちの職場や生活に進出して来る「アフターコロナ」の世界では、新たにどのような仕事が私たち人間に求められるようになるのでしょう。
それは、AIや情報処理システムにはできない仕事です。
かつて、産業革命当時、機械によりエネルギーを活用することが可能になると、それを操作し、その活用法を考える仕事を人間が分担するようになりました。
当時の機械には備わっていなかった人間の「感覚」や「思考力」が必要とされたのです。
これは、「人間らしさ」というものについての考え方にも影響を与えました。
人間という生物は、道具や機械を創ることにより、それまで自分自身がやっていた仕事を道具や機械に任せることで文明を発展させてきました。
そして、その度に、新たな道具や機械と自分自身を比較し、「人間らしさ」とは何かという問いを考え続けてきたのです。
自動車や蒸気機関車と人間を比べれば、どちらも燃料(食料)を取り入れ燃焼(化学反応)を起こし、そうして生み出したエネルギーを使って運動を行います。
この点では、機械も人間も同じです。
当時の人々は、人間にも「良く出来た機械」という側面があると考えました。いわゆる、デカルト(Rene Descartes 1596~1650)が提唱したような「人間機械論」です。
しかし、機械と人間は、もちろん違います。
発揮できるパワーという点では、人間よりも、これらの機械は優れていますが、そのパワーをどのように制御し活かすかということを人間は考え、実際に操縦することができます。
こうした、感覚の力、判断する力、思考力などが「人間らしい」能力であると当時の人々は考えました。
しかし、機械の進化は止まりません。やがて、こうした「人間らしい」能力の一部も機械に取って代わられるようになってしまいました。
それまで人間が担っていた「計算」や「記憶」を担当し、人間以上の能力を発揮する機械が登場したのです。それがコンピュータでした。
この時点で、思考力の一部や記憶力は、必ずしも「人間らしさ」を代表する能力ではないと人々が考えるようになりました。
やがて、光などの様々な電磁波に反応するセンサーや微量な化学物質を検出するセンサーが開発されるようになり、「感覚」における人間の優位性?も怪しくなってきました。
コンピュータが「論理」を操る機械である以上、それが進化すれば、判断力を備え、推理力を発揮し、いわゆる人間の「思考力」を凌駕するのは時間の問題でした。
チェスや囲碁などで、コンピュータが人間に勝つようになり、私たちは、「思考力」すらも最早「人間らしさ」を代表する能力ではないと考えるようになりました。
現代では、こうしたコンピュータが諸々のセンサーや情報入力システムにつながり、得られた膨大なデータから、研究の対象とする現象について、深いレベルの法則性を学び取ることができるようになりました。いわゆる「ディープラーニング」です。
既に、自動運転や癌細胞の自動検出などの分野でディープラーニングの技術が応用されています。これにより、画像認識などの領域では、AIの方が人間の認識能力を精度の点で超えてしまいました。
たとえば、大群衆の中から友人の顔を探し出す作業は、人間よりもAIの方が早く正確にできるようになったのです。
当然のことながら、産業革命の時代と現代では「人間らしさ」とは何かという問いへの答えは違ってきます。私たち人類は、自分たちが創り出した道具や機械を「鏡」として、「自分らしさ」を見つけようとしています。
しかし、その鏡は、不断に進化し、それに合わせて新たな映像を映し出します。その進化は、人類が存続する限り、永遠に続くのです
「創造性」こそが人間らしい能力、という考えは時代遅れ
少し以前に、「創造性」こそが人間らしい能力であり、AIが活躍する時代において人間に求められる能力ではないだろうか? というような議論が盛んになったことがあります。
しかし、それは既に時代遅れになってしまったような気がするのです。
創造性というのは、これまでになかった新しいものを創り出す能力です。
しかも、その新しいものが、人々から歓迎され、喜ばれるようなものであることを、多くの人々は期待しているのではないでしょうか。
要するに、市場で競争力を発揮するような、「儲け」につながる創造性です。
しかし、そうした意味での「創造活動」ならば、既にAIを使って(こっそりと)行われているのではないでしょうか。
たとえば、ポップミュージックの世界で、これまでにヒットした曲をデータとしてAIに与え、ディープラーニングのような手法を使ってその「深層構造」を学習させ、それに基づいて新たな楽曲を創造することは充分に可能です。
実際に、そうしたやり方で作曲?をしているのではないかと疑われている作曲家もいるのです。
全面的にAIに頼らなくても、アイデアが枯渇した時に、こうした手法で創り出したいくつかの曲の中から気に入ったものを選び出し、それに一部手を入れたり編曲したりすれば、何となくその人らしいオリジナル曲?ができ上りそうですね。そうは思いませんか?
多くの人気楽曲は、当然のことながら、過去の作品の延長線上に創られています。
当然、このプロセスは論理的に解析できるはずです。
これは何もポップミュージックの世界に限ったことではありません。
詩作であれ、小説であれ、戯曲であれ、あるいは絵画などの造形作品であれ、大同小異、基本的には同じことではないでしょうか。
要するに、私たちがこれまで「創造」という言葉で呼んできたものの、かなりの部分は、AIによって代行可能なのかもしれません。
ただ、全ての創造作品がこうした枠組みの中に納まるとは思えません。
なぜなら、ディープラーニングなどのAIによる学習モデルは「数」を前提にしているからです。ポップミュージックなどは多数に支持されることにより価値を持ちます。
要するに、数の問題なのです。
ということは、逆に、ごく「少数」のものが隠し持っている価値については、まだまだAIは苦手なのです。
少数派というものが普遍的な価値につながらないかといえばそんなことはありません。
レーニン(Vladimir Lenin 1870~1924)の「前衛論」のように、少数の精鋭部隊が先頭に立ち、やがて大衆を動かすというようなダイナミズムは、政治の世界だけでなく、アートやライフスタイルにおける流行現象などでも見られることです。
当初は、そうした創造物の価値を理解する人々はごくごく少数派であっても、やがてそれが内在する普遍的な価値についての認識は、あたかも感染症のパンデミックのように大衆へと広がって行くのです。
この辺りは、まだまだ、AIには真似のできない芸当のようです。
失敗、病気、遊び、犯罪
大量生産品の大量消費といったレベルで必要な「創造性」はAIに取って代わられるとしても、人間には、まだ、レーニンの「前衛党」のような創造的「種子」を生み出す楽しみは残されているのではないでしょうか。
そうした意味では、機械に真似のできない創造性を求める人たちは、少数派を目指す必要があるのかもしれません。
それだけでなく、18世紀以来続いている産業社会の諸価値、「合理性」や「生産性」、「効率」や「科学主義」、いわゆる「グローバリズム」や「唯物論」
などから自由であることが求められます。こうした価値に囚われないことです。
ただし、当然と言えば当然なのですが、こうした、現代の「常識」を支えている諸々の価値から自由になることには危険が伴います。
なぜなら、そうすることは善良な多数派の市民が大切にしている様々な価値を否定しているとみなされるからです。
これはどうしてもトラブルの素になりますから、少数の同志?!の間でだけ情報共有するように注意を払うべきでしょう。
その上で、創造の種子が潜んでいるかもしれない人間の営みについて研究し、考察してみましょう。それらは、常識的には価値がないと思われているものばかりです。
たとえば「失敗」。常識的には「成功」に価値が置かれ、失敗は少ないほど良いと思われているわけですが、それは、高度にプログラム化された段取りの良すぎる教育システムが、失敗を極小化することで成功体験を得させることに尽力した成果でもあります。
しかし、本物の創造的な成功の陰には、膨大な数の失敗が積み重ねられているのであり、自然な状況では、失敗無しに成功体験が得られるなどということはありません。
失敗には創造の種子が潜在しているのです。
たとえば「病気」。常識以前に、動物的なレベルで、誰しもが「健康」を求めます。それが間違っているわけではないのですが、一方で、「病気」を生きることもまた個人の人生であり、「現実」なのです。
自分自身が抱える病気というダークサイドに向き合った時、そこに創造的で個性的な生き様が生まれ出るのです。それは様々な「障害」においても同じです。
実際、心理学や精神医学は、これまで、各種の精神病や神経症、依存症などと向き合うことで、人間の精神というものを深く理解することができました。同じことが個人レベルでもできるはずです。
病気や狂気にも意味があり、創造の種子が潜在しているのです。
たとえば「遊び」。ここで言う遊びは子供の発達にとって必要な遊びでも、良識ある市民が労働による疲労からリクリエーションをするための、お行儀の良い遊びでもありません。
クソの役にも立たない、「もういい加減にしたら」と注意されるような、不道徳感満載の「遊び」です。これには、ギャンブルのような依存症的なものも含まれます。
合理的な存在理由が見当たらない。社会に貢献するわけでもない。本人が遊びたがっているというだけのどうしようもない蕩尽(とうじん)的な「遊び」というのが理想的です。
創造の種子が潜んでいることは確かなのですが、見つけるのには苦労しそうです。
たとえば「犯罪」。もちろん、犯罪を奨励するつもりはありません。しかし、犯罪が発生する背景には必ず社会の歪みや犯罪者の抱える精神的な問題(その多くが生育環境に原因を持つ)が潜んでいます。
ですから、いくら刑罰を重くしても犯罪は減らないのです。
そして、犯罪は、良識的な市民社会のシャドー(影:達成されなかった可能性)でもあります。
ということは、犯罪は、多くの善良な市民の心の底に潜む、不安や怒り、ルサンチマン(恨み)などが顕在化したものでもあるのです。
犯罪の深層にも、創造の種子は潜んでいるはずです。
これらは、ほんの一例です。
現代社会に適応するための色眼鏡を外せば、あなたがフリーク(マニア)になれるものは意外に簡単にみつかるはずです。
常識的な価値判断からすれば、無価値に見えるもので、それでも貴方が興味をそそられるものは、実は身の回りにたくさんあるはずです。周囲に見当たらなければ、時間を遡っても良いでしょう。
そして、こんなバカバカしいことに夢中になれるのは、貴方が「人間」だからです。
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