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ホンマでっか池田教授が明かす生物学的な「多様性」と社会の矛盾

ここ数年、日本社会が掲げるスローガンの1つに「多様性の尊重」があり、企業などでは生き残り戦略として「ダイバーシティ」の推進や実践が求められています。CX系「ホンマでっか!?TV」でもお馴染み、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』著者の池田教授は、生物学的にも遺伝的多様性は絶滅しにくさにつながると具体例を紹介。一方で、野生生物については「外来種」を毛嫌いする人や排斥する政策が存在し、さらには「遺伝子汚染」というネガティブな言葉を使う人がいることにも触れ、「多様性」という言葉の曖昧さと、抱えている多くの矛盾を明らかにしています。

多様性ってなんだろう

多様性というのは曖昧なコトバである。生物多様性から人間社会の多様性まで、多様性は様々な文脈で用いられるが、その意味するところは必ずしも明瞭ではない。例えば、生物多様性は、普通はある地域の生物種がどれだけ多いかを示すコトバとして使われるが(種多様性)、単純に、種多様性が高ければ高いほど素晴らしいかというと、なかなかそうもいかないのである。

例えば、ある地域の生態系に外来種が侵入してきたとする。ほとんどの場合は、しばらくすると絶滅するが、稀に定着すると、この地域の種多様性は1種増えたことになる。種多様性が高いことを無条件に善とする立場からは、これは歓迎すべきことだが、外来種排斥主義者は、悪と思うだろう。確かに競争力の強いアメリカザリガニのような外来種は、在来種を絶滅に追いやったり、激減させたりするので、外来種排斥主義者の主張も分かるが、在来種と共存して、共に生残可能なものは、問題ないと思う。

例えば、アカボシゴマダラという蝶がいる。この種は人為的な放蝶によって関東地方に定着した外来種で、中部地方や東北地方にも分布を拡げている。幼虫はエノキの葉を食し、オオムラサキ、ゴマダラチョウ、ヒオドシチョウ、テングチョウといった在来種と食草が同じである。食草が競合するという理由で、環境省はアカボシゴマダラを特定外来生物に指定して、人為的な移動や飼育などを禁じたが、アカボシゴマダラ自身は法律を守らないので、どんどん分布を拡げている。

実はアカボシゴマダラは、他のエノキ食いの蝶と多少ニッチ(生態的地位)が違い共存するので、問題にするほどのことはないのである。日本の蝶の種多様性を増やしたのだから、排斥しなくともいいと思う。尤も膨大な税金をつぎ込んでも絶滅させることは不可能だけれどもね。

多様性が大事だと言いながら、合理的な理由からではなく、自分たちの感性に合わない多様性を、遺伝子汚染というコトバで忌避する人たちもいる。生物学では、種多様性のほかに遺伝的多様性という概念があり、一つの種が擁するゲノムの総体のことだ。無性生殖で増えている生物は基本的に親と同じゲノムを持つので、一個体のメスの子孫はすべて同じゲノムを持つクローンで、遺伝的多様性はない。

クローンが環境変異に弱く絶滅し易いのは生物学の定説で、遺伝的多様性が高く、様々なタイプの個体が存在している方が、種の絶滅確率は低くなる。すでに書いたことがあるが、有名なのは19世紀半ばのアイルランド飢饉だ。当時アイルランドの人々の主食はジャガイモで、栽培に最も適したほぼ1品種のジャガイモだけを栽培していた。まあクローンに近いと考えてよい。ところがジャガイモ疫病というカビによって引き起こされる伝染病が流行して、アイルランドのジャガイモは壊滅的な被害を受け、酷い飢饉が発生した。このクローンはジャガイモ疫病に弱いタイプだったのだ。

遺伝的多様性が高い方が生き残り易いのは人間にも当てはまる。約10万年前からアフリカを出て波状的にユーラシア大陸に侵入したホモ・サピエンスの一部は、先住人類のネアンデルタール人と交雑した。その結果アフリカに残ったホモ・サピエンス以外の現生人類にはネアンデルタール人の遺伝子が2~5%ほど混入している。

交雑した個体はそれほど多くなかったろうし、ネアンデルタール人は3万9千年前に絶滅しているので、混入したネアンデルタール人の遺伝子が特別適応的でなければ、確率的に消えて行ってもよさそうだ。なぜ残っているかというと、これらの遺伝子は耐寒性に優れた遺伝子だったからだと考えられている。ネアンデルタール人と交雑せずに純血を守ったグループもあったに違いないが、氷河期の寒さで絶滅したのだろう。ジャガイモの生き残りばかりでなく、人類の生き残りにとっても遺伝的多様性は重要なのである。

京都の鴨川のオオサンショウウオは、現在9割以上がニホンオオサンショウウオと、人為的に移入されたチュウゴクオオサンショウウオのハイブリッドで、外来種排斥主義者は遺伝子汚染と言って忌み嫌っているが、当のオオサンショウウオにしてみれば、交雑したことで遺伝的多様性を増やし、結果的に種の生き残りを図っているとも考えられる。

自分たちもネアンデルタール人との交雑の産物なのに、なぜ他の生物の交雑を遺伝子汚染というネガティヴなコトバで呼ぶのか分からない。異質な他者は排除した方がいいという感性が身に付いているせいなのだな、きっと。おそらく、これは狩猟採集生活を脱して、集団間の抗争や戦争が始まり、他の集団を警戒せざるを得なくなった時からの思考パターンなのだろう。

野外で起きる、外来種と在来種の交雑は気に入らないが、飼育栽培されている動植物は交雑させて様々な品種を作りだすのは許容するという考えもよく分からない。野生動物の交雑は制御できないが、飼育栽培生物はコントロール可能ということなのだろうね。

そういえば、栽培されている野菜や穀物は日本原産でなくても外来種とは言わないというのが、外来種排斥主義者の定義のようだけど、勝手な定義だね。栽培作物であれ何であれ外国から人為的に入ってきた生物は外来種だろう。外来種のなかにも許容できるものと、排斥した方がいいものがあるという考えの方が余程素直だ。人間にとって役に立つもの、アカボシゴマダラのように生態系に大した侵襲を与えないものは、たとえ外来種でも、排斥する必要はない。

野外に放たれた外来種はコントロールできないので、それが気に入らないというのはいかにも都会人の考えだが、そもそも自然や生物が人間の思い通りにはならないのは、自分の体を観察すればわかる。自分の体の老化をコントロールするのは不可能だ。どんなに金をかけても、人は老いて病気になってやがて死ぬ。ヒトの体は自然物だからである。

ところで、長いタイムスケールを取れば、遺伝的多様性が高い生物の方が絶滅しにくいが、短期的な繁栄にとってはクローンの方が効率がいいのは確かである。単為生殖はコストがかからないので、当該のクローンが環境に適応している限り、競争力が高いからだ。

この観点から現代社会を見てみると、労働環境の多様性は経済効率を最優先した資本主義の敵だった。例えば、戦後の日本を世界第二位の経済大国に導いたのは、労働者の働き方の均一化や製品の画一化であった。これによって生産コストを下げ、国際競争力を高めたのである。

しかし成功は失敗のもとである。多くの日本の企業はこの成功体験を忘れられずに、脱工業化社会になっても、社員の働き方や考え方の多様化に舵を切ることができなかった。第一次産業革命(18世紀末から19世紀初頭に蒸気機関の発明により起こった産業革命)、第二次産業革命(19世紀末から20世紀初頭に内燃機関と電気モーターの発達によって起こった産業革命)までは均一化と画一化は生産性にとってプラスに作用したが、第三次産業革命(20世紀末にコンピュータとインターネットがもたらした産業革命)が起こると、この二つは生産性を引っ張る桎梏に転化したのである。(メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』より一部抜粋)

image by: Shutterstock.com

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