ホンマでっか池田教授が探る「承認欲求おばけ」の心理。生きた証って何だ?

 

女房の父母の墓がある、自宅近くの高乗寺には、寺山修司と忌野清志郎の墓があり、墓参の人が時々訪れている。中には、両者のことを直接見知っているとは思われない若いグループもあり、これらの人は寺山修司の書き物を読んだり、忌野清志郎のロックを聴いたりして、ファンになった人たちだろう。だから、この両人にとっての生きた証は、生前に残した書物やコンサート(の録画)であろう。

ファンが墓参に来るのは、墓そのものに価値があるわけではなく、この両人をより身近に感じたいからであろう。何であれ、何らかの業績があり、死後もその業績をリスペクトしてくれる人がいる限り、これらの業績は立派な生きた証になる。どんな立派な墓を建てても曾孫の代には忘れられてしまうのなら、小説でも絵画でも工芸品でも、何でもいいから自分の作品を後世に残して、後世の人に承認してもらえれば、墓とは比べ物にならない生きた証になることは間違いない。

実際、生きている時は無名に近かったが、死後、作品が褒めたたえられ、名声が上がった人もいる(まあ、ほとんどの人は生きている時も、死んだ後も、無名のままだけれどもね)。

例えば、ゴッホの絵は、今では数十億~数百億円の値が付くが、生前に売れたのは「赤い葡萄畑」一点のみで、価格は400フラン(現在の価値換算では、約10万~15万円程度か)であったという。今では知らない人はいないほど有名になった宮沢賢治もまた、生前はほぼ無名で、受け取った原稿料は、「愛国婦人」に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったと言われる。

しかし、だからと言って、誰もがゴッホや宮沢賢治になれるものでもない。プロの画家や作家でない人は、沢山の絵を描き残しても、小説や詩、エッセイ、学術書などを自費出版しても、残念ながら、本人が亡くなれば、多くの場合、ゴミとして処分されると思って間違いない。子供が父親や母親の形見だと思って大事にしてくれるのは、余程、僥倖に恵まれた方だろう。

学者の中には、定年退官といった節目の時に、弟子たちに業績リストを作ってもらえる人がいる。最終講義や定年退官記念パーティなどに出席して業績リストを貰ったことがある人もいると思う。業績リストは学者として生きた証なのだ。しかし、ノーベル賞の対象になった記念すべき論文や、パラダイムを転換させたような著作以外の業績は、10年も経てば、ほとんど忘れ去られて、後世の人の口の端に上ることはない。特に、実験系のサイエンスの分野では、10年以上前の論文が読まれることは滅多にない。

image by: Shutterstock.com

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