ホンマでっか池田教授が探る「承認欲求おばけ」の心理。生きた証って何だ?

 

お金持ちになりたいという欲望は承認欲求と少し異なる、と感じる人がいるかもしれない。人知れず株式投資で大金を儲けて優雅な生活ができれば、他人に承認される必要なんてないと思う人もいるだろう。しかし、大金持ちで、狭苦しい下宿に住んで、最低限の食事をしている人はいない。

優雅な生活とは、立派な邸宅や小ぎれいなマンションに住み、好きなものを食べ、高級車に乗り、自由に旅行に行けるということだろう。要するに、自由に使えるお金が沢山あるということだ。資本主義の社会では、お金をたくさん使う人は社会的に承認されるので、お金があれば承認欲求は満たされる。

有名でなくとも、立派な肩書がなくとも、高級店で毎月高価なものを買っていれば、店の人は下にも置かないもてなしをしてくれるだろう。承認欲求はものすごく満たされるに違いない。それで、見栄を張って、借金をしてまで高級品を買いまくる快感におぼれて、気が付けば借金で首が回らなくなって、自己破産に追い込まれる人もいる。承認欲求は恐ろしいのである。

有名になったり、立派な社会的地位に着いたり、大金持ちになるには、親の七光りの人は別にして、相応の努力がいるが、借金を重ねるのに努力はいらない。中には、肩書を詐称する人がいたり、久しぶりの同窓会に出て行って、年収が500万円しかないのに、2000万円などとウソをついたりする人もいる。後者はご愛敬だけれども、前者は場合によっては犯罪になる。承認欲求は強いけれども、努力をしたくない人は、ややこしいことになりかねない。

今ここに書いた承認欲求は、とりあえず、生きている時だけの話である。しかし、中には死んだ後も、自分の存在を承認され続けられたい、との欲望を持つ人もいる。そこで、生きた証という話になる。しかし、歴史に名を留めるような人でなければ、世間一般に死後も承認され続けることはあり得ないので、せめて自分の身内や親しい人に自分のことを忘れないでほしい、と願うことは理解できる。そのための「よすが」として生きた証を残したい、ということなのだろう。

しかし、死後のことは知る術がないから、自分の死後、自分のことを多少とも覚えていて、リスペクトしてくれる人がいるかどうかはわからない。生きた証として一番一般的で確かなのは墓であろう。日本ではお盆とお彼岸に墓参りをする風習があり、この日だけは自分のことを思い出してもらえるだろうと期待できる。しかしそれも、自分のことを直接見知っている子供や孫あたりまでで、それ以降の世代に承認されようと思っても無理なのは、お墓参りに行った人ならば、みんな知っているはずだ。何も知らない人の事を承認することは不可能だ。

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